第27話 身体を潤す水
朝食を終えてからしばらくの間、二人は温かいお茶を飲みながら過ごしていた。
昨夜の雷雨が嘘だったかのように、外はよく晴れている。
窓から差し込む日差しは朝のうちから強く、昼が近づくにつれて馬車の中も少しずつ暑くなってきた。
今日は定休日だ。
窓口を開ける必要もなく、急いで薬を作る必要もない。
フィリエンヌは読みかけの本を開き、レオナールは買い出しの予定を書き留めたり、帳簿を確認したりしている。
シュネリュだけは、そんな二人には興味がないらしく、少しでも涼しい場所を探すように馬車の中を移動していた。
やがてレオナールが帳簿から顔を上げる。
棚に置かれた時計へ目を向け、それから立ち上がった。
「さて、昼飯作るか」
「もうそんな時間ですか?」
「もうそんな時間だ」
フィリエンヌも本を閉じた。
レオナールは調理台へ向かい、昼食の支度を始める。
竈に火を入れると、すぐに火が鍋底を温め始め、それと同時に馬車の中へ熱が広がっていった。
ただでさえ今日は暑い。
そこへ竈の熱まで加わったせいか、先ほどよりも馬車の中が暑く感じられる。
「レオナール、暑くないですか?」
「まあな。この数日は特に暑くなったよな」
「そうですね」
フィリエンヌは窓の外を見る。
夏はまだこれからだというのに、日差しはずいぶん強くなっている。
「私、子供の頃は夏になるとよく暑くて倒れていたんです」
鍋をかき混ぜていたレオナールの手が止まった。
振り返ってフィリエンヌを見る。
「……よく?」
「はい」
「よく倒れてたのか?」
「夏は何度か」
「それをよく倒れてたって言うんだよ」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」
フィリエンヌにとっては昔のことだからか、大したことではないらしい。
レオナールは何とも言えない顔をしてから、再び鍋へ向き直った。
「師匠がいつも、普段とは違う水を飲ませてくれました」
「水?」
「はい。少し甘くて、少ししょっぱかったです」
「……旨いのか、それ」
「美味しくはなかったです」
「だろうな」
フィリエンヌは当時の味を思い出す。
喉が渇いていたから言われるまま飲んでいたが、好んで飲みたい味ではなかった。
「でも、それを飲んで休んでいると楽になりました」
「何が入ってたんだ?」
「塩と砂糖だったと思います。師匠が、水だけでは足りないものを身体に戻すんだと言っていました」
「へえ」
レオナールはそれ以上聞かず、昼食を作り続ける。
フィリエンヌも再び本を開いた。
しばらくすると料理の匂いが馬車の中に広がった。
「できたぞ」
「はい」
シュネリュが真っ先に反応して起き上がる。
「お前は飯になると早いな」
「キュ」
三人で昼食を食べる。
食べ終わる頃には、先ほどの話はすっかり途切れていた。
食器を片づけ終えると、レオナールは椅子へ座り直した。
「さて、午後はどうする?」
定休日なのだから、何もしなくてもいい。
買い出しも急ぐものはない。
フィリエンヌは少し考えた。
「さっきの水を作ります」
「……何でそうなる」
「今日は定休日だぞ」
「はい」
「休む日だって、この前話したよな?」
「覚えています」
「じゃあ何で作るんだ」
フィリエンヌは窓の外へ目を向けた。
「これからもっと暑くなりますよね」
「まあ、なるだろうな」
「暑くて倒れる人もいるかもしれません」
「……そうだな」
「倒れる前に飲んでもらいましょう」
レオナールは黙った。
フィリエンヌはもう立ち上がっている。
「師匠の備忘録に書いてあると思います」
「結局やるんだな」
「はい」
「……分かった。ただし、今日は大量に作るなよ」
「薬を作るわけではありませんよ?」
「お前、いつも補充分の薬だけでも大量に作ろうとするだろ」
「必要な分です」
「今日は休みだ」
レオナールも立ち上がった。
フィリエンヌはオルテンシアが遺した備忘録を取り出し、古びたページを一枚ずつめくっていった。
「あったか?」
「待ってください」
ページを戻し、まためくる。
しばらくして、フィリエンヌの指が止まった。
「あ。ありました」
「何て書いてある?」
「水に塩と砂糖を少量」
「それだけか?」
フィリエンヌはその先を読む。
ページをめくり、もう一度戻る。
「……それだけです」
「分量は?」
「ありません」
「お前の師匠らしいよな」
「なんとなく味は覚えています」
「なんとなく?」
「作って飲んで確かめましょう」
「……嫌な予感がするな」
フィリエンヌは早速、試作の準備を始めた。
「一樽分なら――」
「待て」
「はい?」
「試すだけなら一杯分でやれ」
「でも一樽分で作った方が分量を決めやすいですよ」
「失敗したらどうする」
「捨てます」
「だから止めてるんだ」
「なるほど」
フィリエンヌは素直に用意しかけた樽を戻した。
小さな器へ水を入れ、記憶を頼りに塩と砂糖を加える。
よく混ぜてから、レオナールへ差し出した。
「どうぞ」
「俺が先なのか?」
「はい」
「……まあいいけどな」
レオナールが一口飲む。
動きが止まった。
「どうですか?」
「……しょっぱい」
「そうですか?」
「飲んでみろ」
渡された器からフィリエンヌも一口飲む。
「……しょっぱいですね」
「だろ」
「師匠のは、もう少し甘かった気がします」
「先に思い出せ」
フィリエンヌは新しい器を用意した。
今度は塩を減らし、砂糖を増やして混ぜる。
先ほどと同じようにレオナールへ渡した。
「どうぞ」
「また俺からか」
「味を見てもらわないと」
「お前も飲むんだぞ」
「もちろんです」
一口飲んだレオナールが眉を寄せる。
「……甘い」
「さっきより飲みやすいですよ?」
「暑いときに何度も飲むなら甘すぎる」
フィリエンヌも飲んでみる。
「私は飲めます」
「飲めるかどうかじゃない」
「難しいですね」
「薬じゃないんだろ?」
「はい」
「なら効けばいいだけじゃ駄目だ。何度も飲むなら、普通に飲める味にしろ」
「なるほど」
フィリエンヌは砂糖の量を減らした。
塩もさらに少なくする。
水との割合を変え、三杯目を作った。
今度は二人ほぼ同時に口をつける。
「……どうですか?」
「悪くない」
「私もこれくらいだと思います」
「じゃあ決まりか?」
「もう少し様子を見ましょう」
「様子?」
「師匠も飲ませたあと、しばらく休ませてくれましたから」
すぐには次を作らず、しばらく待つことにした。
使った器を洗い、配合を書き留める。
シュネリュが退屈したのか、フィリエンヌの足元までやってきた。
「シュネリュも暇ですか?」
「キュ」
フィリエンヌはしゃがんで頭を撫でる。
その間にレオナールが水を一杯飲んだ。
フィリエンヌが顔を上げる。
「レオナール」
「何だ?」
「喉が渇いたんですか?」
「ん?」
言われて、レオナールは手にした杯を見る。
「……そういや、さっきから妙に渇くな」
フィリエンヌも自分の喉を意識する。
確かに水が欲しい。
「私もです」
「飲んだあとに余計喉が渇いてどうする」
「駄目ですね」
三杯目も失敗だった。
再び配合を変える。
四杯目。
今度は飲んでも喉は渇かなかった。
甘すぎることもなく、塩気もほとんど気にならない。
「これはいいんじゃないか?」
「そうですね」
フィリエンヌはもう一口飲んだ。
「…………」
「何だ?」
「何か残りませんか?」
レオナールも口の中を確かめる。
「……残るな」
「不味くはないんですけど」
「後味がよくないな」
「もう一杯飲みたい感じではありません」
「それじゃ駄目だろ」
「そうですね」
フィリエンヌは考える。
視線が薬草を置いている棚へ向かった。
「あ」
「何かあるのか?」
「涼葉草を使ってみましょうか」
「涼葉草?」
「口の中の不快感を和らげる薬にも使います。抽出液を少しなら飲めますよ」
フィリエンヌは棚から涼葉草を取り出した。
細長い緑の葉を指先で軽く揉むと、すっと鼻を抜ける涼やかな香りが広がる。
「これから抽出した薬液を少し加えれば、後味もよくなるかもしれません」
「少しだからな」
「分かっています」
フィリエンヌは涼葉草から抽出して保存していた薬液を取り出す。
先ほどの配合を元に新しい試作品を作り、そこへ数滴落とした。
よく混ぜる。
「どうぞ」
レオナールが器を受け取り、一口飲む。
「…………」
「どうですか?」
「口の中が寒い」
「涼しいですよね」
「寒いと言った」
フィリエンヌも飲んでみる。
口に含んだ瞬間、涼やかな感覚が一気に広がった。
確かに強い。
だが、暑い日ならこれくらいでもいい気がする。
「私はこれでもいいと思います」
「客にこれを飲ませる気か?」
「暑い日なら気持ちいいですよ?」
「毎日飲むものなんだろ?」
「そうですね」
「減らせ」
「では、少しだけ」
「かなり減らせ」
また作り直す。
抽出液の量を減らし、一口。
まだ強い。
さらに減らす。
もう一口。
「……フィリエンヌ」
「はい?」
「俺たち、さっきからどれだけ飲んでる?」
フィリエンヌは並んでいる器を見る。
「かなり飲んでいますね」
「腹いっぱいになってきたんだが」
「私もです」
「昼飯食ったばかりだからな」
足元ではシュネリュが二人を見上げている。
「キュ?」
「お前は飲まなくていいぞ」
レオナールが言うと、シュネリュは小さく首を傾げた。
もう一度だけ配合を調整する。
フィリエンヌは慎重に涼葉草の抽出液を落とした。
混ぜてから、二人で飲む。
「…………」
「…………」
すぐには何も言わなかった。
少し待つ。
先ほどまでのように喉は渇かない。
甘さも塩気もほとんど気にならない。
口の中には、ほんのわずかに涼やかな感覚だけが残っている。
「どうですか?」
「これならいいんじゃないか」
「後味も悪くありませんね」
「ああ」
フィリエンヌは器の中を見つめる。
「もう一滴くらい涼葉草を――」
「入れるな」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
「もう少し涼しくてもいいと思います」
「四滴までだ」
「小樽一つにですか?」
「ああ。それ以上入れるな」
「分かりました」
フィリエンヌは配合を書き留める。
小樽一つ分の水。
塩は小さな匙で四杯。
砂糖は大きな匙で五杯。
涼葉草の抽出液は四滴まで。
これなら小樽一つで、販売用の瓶およそ二十本分になる。
「保存はどれくらいできる?」
「作った日から六日くらいなら大丈夫です」
「なら客には五日以内に飲めって言っとけ」
「六日は大丈夫ですよ?」
「ぎりぎりまで置かせる必要ないだろ」
「なるほど」
フィリエンヌはそれも書き加えた。
レオナールは完成した液体を見る。
「で、これは何て呼ぶんだ?」
「……名前ですか?」
「売るなら何か名前がいるだろ」
フィリエンヌは先ほど自分が言ったことを思い出す。
倒れてからではなく、倒れる前に飲んでもらう。
暑い日に失ったものを補い、身体を潤すための水。
「……身体を潤すための水ですから、体潤水というのはどうでしょう」
「体潤水か」
「変ですか?」
「いや。何のためのものか分かりやすいんじゃないか」
「では、体潤水にします」
名前が決まった。
フィリエンヌは備忘録とは別の紙に、今決めた配合と体潤水という名前を書き留めた。
「では、大樽で作りましょう」
「小樽だ」
「どうしてですか?」
「大樽だと何本になる?」
「五十本には少し届かないくらいです」
「まだ誰も知らないものを五十本近く作ってどうする」
「でも、これから暑くなりますよ?」
「暑くなったからって五十人が買ってくれるとは限らないだろ」
フィリエンヌは少し考える。
「そうですね」
「まず小樽一つ。二十本くらいからだ。売れ方を見て増やせばいい」
「分かりました」
「あと値段だな」
「値段?」
「売るんだろ?」
「はい」
「なら決めないと駄目だろ」
フィリエンヌは完成したことで、すっかり終わったつもりだった。
レオナールは材料を書き出し、それぞれにかかる金額を確認していく。
水そのものに大した金はかからない。
塩も砂糖も、それほど多くは使わない。
涼葉草も、この時期なら安く手に入る。
問題は容器だった。
「瓶込みなら小銀貨一枚くらいだな」
「そんなにしますか?」
「瓶代があるからな。中身だけならもっと安くできる」
「では、瓶を持ってきてもらえばいいんですね」
「ああ。前に買った瓶でも、同じくらい入る容器でもいい。きれいに洗ってあるものならな」
「それなら無駄になりませんね」
「容器持参なら銅貨八枚くらいでいいだろ」
フィリエンヌはそれも書き留めた。
瓶込みなら小銀貨一枚。
容器を持参すれば、同じ量を銅貨八枚。
保存は購入してから五日を目安に飲み切ってもらう。
「これで終わりですか?」
「多分な」
「では、小樽一つ作ります」
「今から?」
「次に店を開けたときに売れますよ」
レオナールは窓の外を見る。
いつの間にか、日が少し傾き始めていた。
「……結局、休みの日に仕事してるじゃないか」
「でも、今日は薬を作っていませんよ?」
「そういう問題じゃない」
フィリエンヌは小さく笑った。
「楽しかったですよ」
「……そうかよ」
そう言いながらも、レオナールは小樽を出すのを手伝った。
決めたばかりの分量を量り、二人で確認しながら混ぜていく。
最後に涼葉草の抽出液を四滴。
「四滴です」
「分かってる」
「五滴目は入れません」
「当たり前だ」
出来上がった体潤水を見て、フィリエンヌは満足そうに頷いた。
「売れるといいですね」
「最初はそんなに売れないだろ」
「そうですか?」
「誰も知らないものだからな。少しずつでいいだろ」
「はい」
足元では、待ちくたびれたシュネリュが大きなあくびをしていた。
定休日の午後は、こうしてほとんど体潤水を作るために使ってしまった。
けれどフィリエンヌは、それを少しも惜しいとは思わなかった。
昔、暑さで倒れるたびに師匠が飲ませてくれた、少し甘くて少ししょっぱい水。
その水は今、少しだけ飲みやすくなって、新しい名前をもらった。
次に店を開ける日から、体潤水が店先に並ぶ。
それを必要とするほど暑い夏が、もうすぐそこまで来ていた。




