第26話 雷雨のあとの昔話
今回、フィリエンヌの過去が明らかになります。長めになりますが、レオナールと一緒にフィリエンヌの過去を聞きましょう
朝食ができる頃には、フィリエンヌもすっかりいつもの調子に戻っていた。
昨夜の雷雨が嘘だったように、窓からは明るい日差しが差し込んでいる。
雨上がりのせいか、開けた窓から入ってくる風も少し涼しい。
今日は定休日だ。
店を開ける必要もなければ、急いで薬を作る必要もない。
三人でいつもよりゆっくり朝食をとる。
「今日は何をするんですか?」
「何もしない」
「何もしないんですか?」
「休みだからな」
先日の定休日にも似たような話をした気がする。
レオナールはパンを口へ運びながら、向かいに座るフィリエンヌを見た。
いつもと変わらない。
昨夜、自分の腕の中で震えながら泣いていた姿が嘘のようだった。
「フィリエンヌ」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
聞こうとして、やめた。
朝飯を食っている最中にする話でもない。
それに、本人がこうして普通にしているのなら、急いで聞く必要もないだろう。
フィリエンヌは少し不思議そうにレオナールを見たが、それ以上は聞かず、また朝食を食べ始めた。
その足元では、シュネリュも朝食を食べている。
しばらくして三人とも食べ終わると、レオナールは食器を片づけ始めた。
「お茶、飲むか?」
「はい」
湯を沸かし、茶葉を入れる。
今日はどこかへ出かける予定もない。
せっかくの休みなのだから、朝くらいゆっくりしてもいいだろう。
レオナールは二人分の茶を用意して、片方をフィリエンヌの前へ置いた。
「ありがとうございます」
自分の分を持って向かいへ座る。
フィリエンヌはカップを両手で包み、立ち上る湯気を眺めていた。
レオナールも一口飲む。
昨夜の雷雨が嘘のように、馬車の中には静かな時間が流れている。
今なら、聞いてもいいかもしれない。
レオナールはカップを置いた。
「昨日のことなんだが」
フィリエンヌが顔を上げた。
「はい」
「夜中のこと、覚えてるか?」
「レオナールの寝台に入ったことですか?」
「ああ。それもだが……寝たあとのことだ」
フィリエンヌはカップを両手で持ったまま、少し考える。
「寝たあとは寝ていたので分かりません」
「……そりゃそうだな」
もっともな答えだった。
レオナールは一度カップへ手を伸ばし、やめた。
「寝言を言ってたぞ」
「私がですか?」
「ああ。師匠を呼んでた」
フィリエンヌの動きが止まった。
だが、昨夜雷が鳴ったときのように身体が強張ったわけではない。
少し考えるように視線を落とす。
「……夢を見ていました」
「覚えてるのか?」
「はい」
フィリエンヌはカップの中のお茶へ目を落とした。
しばらく、そのまま何も言わない。
レオナールも急かさず待った。
「師匠が亡くなった日の夢です」
レオナールの眉がわずかに動いた。
「……そうか」
昨夜、腕の中で涙を流しながら繰り返していた言葉を思い出す。
『師匠……起きてください……』
あれは、ただ師匠の夢を見ていたわけではなかったらしい。
「師匠が亡くなった日も、昨日みたいな雷雨でした」
フィリエンヌの声はいつもとほとんど変わらない。
悲しそうにするわけでも、無理に平静を装っているようにも見えなかった。
ただ、昔の出来事を思い出しながら話している。
「それで雷が苦手なのか?」
「たぶん、そうだと思います」
どこか他人事のような答えに、レオナールはフィリエンヌを見る。
「たぶん?」
「雷が鳴ると、あの日のことを思い出します。だから苦手なんだと思います」
「……そうか」
フィリエンヌは一口、お茶を飲んだ。
「師匠が亡くなったのは、私が十五歳のときです」
「十五……」
レオナールは思わず繰り返した。
今が十六なら、ほんの少し前のことだ。
「それから半年くらい一人で暮らして、馬車で旅に出ました」
「……待て」
今度はレオナールが話を止めた。
「はい?」
「そもそも、どうしてお前は師匠と暮らしていたんだ?」
フィリエンヌは何度か瞬きをした。
どうやら、そこまで遡って聞かれるとは思っていなかったらしい。
「師匠に拾われたからです」
「拾われた?」
「はい。両親とはぐれたあとに」
今度はレオナールが黙った。
「……両親とはぐれたのか?」
「はい。小さい頃なので、あまり覚えていませんけど」
フィリエンヌはカップを両手で包んだまま、少し考える。
「お祭りだったことは覚えています。人がたくさんいて、気づいたら両親がいなくなっていました」
「どこの祭りだ?」
「リュセールの春祭りです」
「…………ここじゃねえか」
「そうですね」
あまりにも普通に返されて、レオナールは眉間を押さえた。
「お前、ここに来たとき何も言わなかっただろ」
「町の名前は覚えていましたけど、町のことはほとんど覚えていませんから」
「……そういう問題か?」
フィリエンヌは少し首を傾げた。
本人にとっては、そういう問題らしい。
「それで、両親とはぐれたあとに師匠と会いました」
「そのとき何歳だった?」
「たぶん六歳です」
「たぶん?」
「正確な誕生日を知らないので、師匠に拾われた日を誕生日にしました」
「……そうなのか」
レオナールはそれ以上、年齢については聞かなかった。
「師匠と会った時のことは覚えているのか?」
「はい。泣いていたら声をかけられました」
レオナールは少し意外に思った。
今のフィリエンヌが泣いている姿など、昨夜まで見たことがなかったから。
「何て言われた?」
「『親はどうしたんだい』だったと思います」
「それで?」
「はぐれたと言いました」
オルテンシアはフィリエンヌを連れて、しばらく両親を探してくれたらしい。
祭りの人混みを歩き、近くの店や町の者にも聞いて回った。
それでも両親は見つからなかった。
「その日は師匠の家に泊まりました」
「次の日は?」
「また探してくれました」
「そのあともか?」
「はい。しばらく探してくれたと思います」
どれくらいの期間だったのかは覚えていない。
幼かったフィリエンヌに残っているのは、オルテンシアと何度も町を歩いたことくらいだった。
「結局、見つからなかったのか」
「はい」
フィリエンヌは静かに答え、お茶を飲んだ。
「それで師匠の家にいるようになりました」
「……ずいぶん簡単に決まったな」
「そうでしょうか?」
「普通はもう少しいろいろあるだろ」
「いろいろあったのかもしれません。でも覚えていません」
レオナールは何も言えなくなった。
本人が覚えていないものを聞き出すことはできない。
「最初は師匠の手伝いをしていました」
フィリエンヌは話を続ける。
「掃除をしたり、本を片づけたり、薬草を分けたりしていました」
「その頃から調合を教わってたのか?」
「いいえ。最初は見ていただけです。でも、ある日火を頼まれました」
「火?」
フィリエンヌが人差し指を立てる。
指先に、ぽっと小さな火が灯った。
「これです」
「……相変わらず小さいな」
「小さいです」
本人もまったく気にした様子がない。
「師匠にも、弱い火だと言われました」
「本人に言ったのか?」
「はい。戦いには使えないし、暖炉にも向かないと」
「……容赦ねえな」
フィリエンヌは小さな火を消した。
「でも、調合には便利でした」
調合鍋の下へ小さな火を灯し、それを消さないよう保つ。
一時間。二時間。長いときには三時間以上。
オルテンシアが薬草を刻み、鍋へ入れている間、幼いフィリエンヌはひたすら火を灯していたという。
「お腹が空いても止めさせてもらえませんでした」
「飯は?」
「パンを片手で食べていました」
「…………」
レオナールの眉間に皺が寄る。
「師匠には『薬を駄目にしたら晩ご飯もなし』と言われました」
「子供に何やらせてんだ、その師匠は」
フィリエンヌは少し首を傾げた。
「でも、そのおかげで長時間火を維持できるようになりました」
「結果がよければいいって話じゃねえだろ」
フィリエンヌにはいまいち伝わっていないらしい。
レオナールは小さく息を吐いた。
どうやらフィリエンヌという人間がどうやって出来上がったのか、少し分かってきた気がした。
「師匠は、どんな人だったんだ?」
レオナールが尋ねると、フィリエンヌは少し考えた。
「調合がとても上手でした」
「それは分かる。他には?」
「薬草にも詳しかったです」
「……そうじゃなくてだな」
どう説明したものかと、レオナールは眉間を指で押さえた。
「普段はどんな人だったんだ。飯を作ったり、掃除したりしてただろ」
「料理はしていました」
「旨かったか?」
「私より上手でした」
「…………」
レオナールは黙った。
その比較では判断できない。
「師匠には、私の料理も悪くないと言われたことがあります」
「……そうか」
初めてフィリエンヌの料理を食べた日のことを思い出す。
本人なりに、あれでも自信があったらしい。
「何ですか?」
「何でもない」
知らなくてもいいことはある。
「掃除は?」
「私がしていました」
「師匠はしなかったのか?」
「していました。でも、あまり得意ではなかったです」
フィリエンヌによれば、オルテンシアは本を読めば読んだ場所へ置き、薬草の資料を広げればそのままにする人だったらしい。
机の上だけでは足りず、椅子にも床にも本が積まれていた。
「一度、積んであった本が全部落ちてきたことがあります」
「お前にか?」
「はい」
「怪我は?」
「頭に少し瘤ができました」
「……片づけろよ」
「それから私が片づけるようになりました」
原因は師匠なのに、片づけるのは弟子だったらしい。
「でも師匠も掃除はしていました」
「本当か?」
「はい。一度、床を拭いていました」
「一度?」
「そのあと自分で濡らした床で滑って転んでいました」
「…………」
レオナールはカップを口へ運んだ。
なんとなく、会ったこともないオルテンシアという人物の姿が見えてきた気がする。
「お前、本当にその師匠に育てられたんだな」
「はい?」
フィリエンヌが不思議そうに首を傾げる。
「いや。続けろ」
フィリエンヌは少し考え、また話し始めた。
「調合では、よく怒られました」
「お前が?」
「はい。子供の頃はよく失敗しました」
薬草を入れる順番を間違えた。
分量を量り間違えた。
火を強くしすぎて薬を駄目にした。
似た葉を取り違えたこともある。
「一度、薬草と毒草を間違えました」
「調合に使ったのか?」
「いいえ。味を確かめようとして食べました」
「……待て」
今度はレオナールが話を止めた。
「はい?」
「なんで食った」
「見た目がよく似ていたので、味なら分かるかと思って」
「それで?」
「毒草でした」
「それはもう聞いた」
レオナールの眉間の皺が深くなる。
「どうなった」
「倒れました」
「…………」
「師匠に薬を飲まされました」
「…………」
「三日くらい寝ていたと思います」
レオナールはしばらく何も言わなかった。
「よく生きてたな、お前」
「師匠にも同じことを言われました」
その返事に、レオナールは深く息を吐いた。
どうやら師匠と暮らしていた九年ほどの間、フィリエンヌが平穏無事に育ったわけではないらしい。
むしろオルテンシアがよく無事に育てたものだと、少しだけ感心した。
「師匠が亡くなった日も、朝はいつもと変わりませんでした」
フィリエンヌの言葉に、レオナールは黙って耳を傾ける。
「師匠は朝から森へ薬草を採りに行きました。珍しいことではありません。よく一人で行っていましたから」
フィリエンヌは家に残り、薬を作っていた。
昼を過ぎてもオルテンシアは帰ってこなかったが、それも時々あることだった。
目当ての薬草が見つからなければ、予定より遅くなることもある。
「だから、あまり気にしていませんでした」
その日の調合を終え、使った器具を洗っていたときだった。
家の扉が激しく叩かれた。
「フィリエンヌ! いるか!」
聞き覚えのない男の声だった。
扉を開ける。
そこにいたのは、見知らぬ男と――その肩を借り、どうにか立っているオルテンシアだった。
「師匠?」
服のあちこちが裂けている。
血に濡れていた。
顔色も悪い。
いつも森から帰ってくる姿とは、何もかもが違っていた。
「すまない。この人を寝かせられるか?」
「何があったんですか?」
「俺が森で獣に襲われて……この人が助けてくれた。そのときに――」
フィリエンヌは最後まで聞かなかった。
「寝台へ運んでください」
男が一瞬黙る。
「早く」
オルテンシアを寝台へ運んでもらう。
フィリエンヌはすぐに傷を確認した。
傷は一つではなかった。
腕にも、身体にも深い傷がある。出血も多い。
「走査」
オルテンシアの身体を淡い光が包む。
傷の深さ。出血の量。身体の状態。
次々と伝わってくる情報に、フィリエンヌの表情が強張った。
見えている傷だけではない。
身体の中にも、大きな損傷がある。
「治療師が必要です」
「分かった。俺が呼んでくる」
「お願いします」
男はすぐに家を飛び出していった。
フィリエンヌは水と清潔な布を用意する。
傷を洗い、出血している場所を押さえる。
「フィリエンヌ」
呼ばれて、手を止めずに答える。
「はい」
「……そんな顔をするんじゃないよ」
「どんな顔ですか?」
「怖い顔」
「師匠が怪我をしているからです」
オルテンシアがほんの少し笑った。
「そうかい」
フィリエンヌは新しい布を傷へ当てる。
「治療師が来ます。それまで私が手当てします」
「……そうだね」
外から、ぽつ、と音がした。
窓を見る。
雨粒が一つ、ガラスを伝っていた。
「雨ですね」
フィリエンヌはそれだけ言って、再び師匠の傷へ目を戻した。
このときはまだ、治療師が来れば大丈夫だと思っていた。
雨はすぐに強くなった。
初めは窓をぽつぽつと叩いていた程度だった音が、いつの間にか絶え間なく続いている。
フィリエンヌは何度も師匠の傷を確認した。
血が滲めば布を替え、傷に使える薬を選ぶ。
できるだけ身体を動かさないようにしながら、少しずつ水も飲ませた。
時間が経つにつれ、オルテンシアの身体が熱を持ち始める。
「身体が熱くなっています」
「そうかい」
返ってきた声には、先ほどまでの力がなかった。
フィリエンヌは立ち上がる。
「薬を作ります」
「今からかい?」
「すぐできます」
必要な薬草を選び、刻む。
調合鍋へ入れ、指先に火を灯す。
いつも師匠と一緒にしていたことを、今日は一人でする。
火を一定に保ち、薬ができるまでの間にも何度も寝台へ戻った。
額に触れる。
熱い。
水に浸した布を絞り、額へ載せる。
また調合鍋へ戻る。
火を見る。
師匠を見る。
それを何度も繰り返した。
やがて出来上がった薬を器へ移し、オルテンシアの身体を起こす。
「師匠、飲めますか?」
「……ああ」
少しずつ薬を飲ませ、また身体を横たえる。
これで少しは身体が楽になるはずだった。
傷の手当てもしている。
治療師もこちらへ向かっている。
今できることは、全部やっている。
それなのに、オルテンシアの呼吸は少しずつ浅くなっていた。
「……師匠?」
「いるよ」
返事がある。
フィリエンヌはそれを確認すると、また額の布を替えた。
「治療師、遅いですね」
「雨だからねえ」
「でも、来ます」
「……そうだね」
外では雨がさらに激しくなっていた。
フィリエンヌは窓へ目を向ける。
昼間だというのに、外はいつの間にか暗くなっていた。
「フィリエンヌ」
また呼ばれ、すぐに寝台へ戻った。
「はい。水ですか?」
「いや」
オルテンシアはゆっくり首を振った。
「物置にね、私の書いたものがある」
「書いたもの?」
「ああ」
「何を書いたんですか?」
「……あとで読みなさい」
フィリエンヌは少し首を傾げた。
「今では駄目なんですか?」
「今はいい」
オルテンシアは一度目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「今は、ここにいなさい」
「はい」
フィリエンヌは素直に頷いた。
その言葉が何を意味しているのか、このときは分からなかった。
ただ、師匠のそばにいろと言われたから、そばにいた。
水に浸した布をもう一度絞る。
額の布を替え、頬へ触れる。
まだ熱い。
ゴロゴロ――。
遠くで、低い音がした。
フィリエンヌの手が止まる。
ほんの一瞬だけ窓を見る。
「雷ですね」
そう言って、またオルテンシアへ向き直った。
それからも、フィリエンヌは何度も額の布を替えた。
薬を飲ませても、オルテンシアの熱はなかなか下がらない。
呼吸も先ほどより浅くなっている。
「師匠、水は飲めますか?」
「……少しだけ」
身体を支え、少しずつ水を飲ませる。
ほんの数口でオルテンシアは顔を背けた。
「もういいよ」
「もう少し飲んだ方がいいです」
「あとでね」
フィリエンヌは器を置いた。
無理に飲ませる方がよくない。
もう一度額へ手を当てる。
ゴロゴロゴロ――。
先ほどより、音が近くなっていた。
窓を叩く雨も弱まる気配がない。
「治療師、まだ来ませんね」
フィリエンヌは窓の外を見た。
「この雨だから……仕方ないさ」
「でも、遅いです」
少し苛立った声になった。
今までは、治療師が来るまで自分が手当てを続ければいいと思えた。
だが、師匠の状態は少しずつ悪くなっている。
「もう一度、診ます」
フィリエンヌはオルテンシアへ手を向けた。
「走査」
淡い光が身体を包む。
伝わってくる状態は、先ほどより悪くなっていた。
フィリエンヌは唇を結ぶ。
「……フィリエンヌ」
「はい」
「もういいよ」
「何がですか?」
「少し休みなさい」
「嫌です」
即答だった。
「まだできることがあります」
「そうかい」
「はい」
オルテンシアは何も言わなかった。
ただ、フィリエンヌの顔をしばらく見ていた。
バリバリッ――。
突然、これまでとは違う鋭い音が響いた。
窓の外が一瞬明るくなる。
フィリエンヌは窓へ目を向けた。
「近くなりましたね」
返事がない。
「師匠?」
「……いるよ」
かすかな声が返ってきた。
フィリエンヌは寝台のそばへ戻る。
「寒くないですか?」
「大丈夫だよ」
フィリエンヌはずれていた布を掛け直した。
オルテンシアの手が、ゆっくりと動く。
その指先がフィリエンヌの手に触れた。
フィリエンヌはその手を握った。
「治療師が来たら、もう一度ちゃんと診てもらいましょう」
「……ああ」
握り返す力は、ほとんどなかった。
「師匠?」
「…………」
目は閉じている。
だが、まだ呼吸はしている。
フィリエンヌは手を握ったまま、寝台のそばに座った。
バリバリバリッ――!
窓の外が白く光った。
大きな雷鳴に驚いて、フィリエンヌはほんの一瞬だけ目を閉じた。
すぐに目を開ける。
オルテンシアの顔が、窓から差し込んだ雷の光に白く照らされていた。
「師匠?」
返事はなかった。
「師匠」
握っている手にも、力がない。
「……師匠?」
額に触れる。
頬に触れる。
「師匠、起きてください」
返事はない。
「師匠」
もう一度呼ぶ。
「師匠、起きてください」
外では雨が激しく家の屋根を叩いている。
雷鳴が遠ざかるより早く、次の低い音が空を震わせた。
「師匠……」
それでもフィリエンヌは、オルテンシアの手を離さなかった。
どれくらいそうしていたのかは、覚えていない。
やがて激しい雨音に混じって、扉を叩く音が聞こえた。
「フィリエンヌ! 治療師を連れてきた!」
先ほどの男の声だった。
フィリエンヌはオルテンシアの手を離し、扉を開けた。
ずぶ濡れになった男と、その後ろに治療師が立っている。
「師匠が起きません」
治療師はすぐに寝台へ向かった。
フィリエンヌもそのあとについていく。
治療師がオルテンシアの身体を診ている間、すぐそばに立って待った。
やがて治療師の手が止まった。
「……いつからだ?」
「分かりません。さっきまで返事をしていました」
「そうか」
治療師はそれ以上何も言わなかった。
「治療してください」
フィリエンヌが言う。
「この人は、もう……」
「薬も飲ませました。傷の手当てもしました。熱も出ていたので、額も冷やしています」
一つずつ説明する。
「だから、あとは治療してください」
治療師はしばらくフィリエンヌを見ていた。
「……よくやった」
フィリエンヌは眉を寄せた。
「まだ終わっていません」
「…………」
「治療してください」
それでも治療師は動かなかった。
そのとき、後ろで何かが床へ落ちる音がした。
振り返る。
師匠を連れてきた男が、その場に膝をついていた。
「……俺のせいだ」
フィリエンヌは男を見る。
「俺を助けたから……俺を庇ったから、この人は……」
男は両手で顔を覆った。
「俺のせいだ……」
「違います」
男が顔を上げる。
「師匠があなたを助けると決めたんです」
フィリエンヌはそれだけ言った。
「あなたが師匠に怪我をさせたわけではありません」
男は何も答えなかった。
そのあと何を話したのか、フィリエンヌはあまり覚えていなかった。
◇
「……お前は、その男を恨まなかったのか?」
レオナールの声に、フィリエンヌはカップから顔を上げた。
「どうしてですか?」
「そいつを助けなければ、師匠は怪我をしなかったかもしれないだろ」
「でも、彼を助けなければ、彼は死んでいたかもしれません」
「それはそうだが……」
フィリエンヌは少し考える。
「それに、師匠が決めたことです」
レオナールは何も言わなかった。
「師匠はそういう人でしたから」
「……そうか」
フィリエンヌはまたお茶を一口飲んだ。
すっかり冷めていた。
「それから、師匠に言われたことを思い出しました」
「書いたものか?」
「はい」
フィリエンヌは小さく頷いた。
「物置にありました。師匠の遺書が」
師匠を見送って数日が経った頃だった。
家の中は静かだった。
それまでもオルテンシアが薬草を採りに出て、一人で留守番をすることは何度もあった。
けれど、その静けさは今までとは違った。
師匠は帰ってこない。
フィリエンヌは一人で食事を作り、使った食器を洗った。
薬草を整理し、調合器具を片づける。
いつもと同じことをしているのに、家の中にはフィリエンヌが立てる音しかなかった。
そんなとき、ふと思い出した。
『物置にね、私の書いたものがある』
フィリエンヌは物置へ向かった。
中には使わなくなった調合器具や古い箱、薬草を干すための道具などが置かれていた。
その中を探し、やがて一通の封筒を見つけた。
表にはフィリエンヌの名前が書いてある。
封を開き、中の紙を取り出した。
『家は好きにしな。馬車はあんたにやる』
フィリエンヌは何度か読み返した。
家のことは分かる。
馬車というのは、物置の奥に長いこと置かれている古い魔法馬車のことだろう。
その下にも文字があった。
『本を売ったら化けて出る』
こちらの方が文字が大きかった。
「……師匠らしいですね」
フィリエンヌの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
◇
「それで、あの本か」
レオナールが馬車の棚へ目を向けた。
そこには今も大量の本が並んでいる。
「はい。全部師匠の本です」
「全部?」
「全部です」
レオナールは改めて棚を見る。
旅に持って歩く量ではない。
「……売るなとは書いてあったんだよな?」
「はい」
「置いてくるという選択肢はなかったのか?」
「師匠の本ですから」
フィリエンヌは当然のように答えた。
「それに、必要な本もたくさんあります」
「全部必要なのか?」
「いつ必要になるか分かりません」
「……そうか」
これ以上聞いても答えは変わらないだろう。
レオナールは諦めてお茶を飲もうとし、すでに冷めていることを思い出してカップを置いた。
「遺書には、それだけだったのか?」
「他にも少しありました。でも、大体は家と馬車と本のことです」
「これからどうしろとかは?」
「ありませんでした」
フィリエンヌは首を横に振る。
「家も好きにしろと書いてありましたから、そのまま住んでいました」
「どれくらいだ?」
「半年くらいです」
「……一人で?」
「はい」
レオナールの眉間に、ゆっくりと皺が寄った。
「十五の子供が、半年も一人で暮らしてたのか」
「もう十五歳でしたよ」
「十五は子供だ」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ」
フィリエンヌは納得しているのかいないのか分からない顔で、冷めたお茶を一口飲んだ。
「でも、特に困りませんでした。調合もできますし、料理もできました」
「…………」
「何ですか?」
「いや」
料理については今は触れないことにした。
「それで半年暮らして、旅に出ることにしたのか?」
「はい」
フィリエンヌは頷いた。
「家にいても、師匠は帰ってきませんから」
レオナールは返す言葉を失った。
フィリエンヌは冷めたお茶を両手で包んだまま、話を続ける。
「家を維持するにもお金が必要でした。それなら調合師として仕事をした方がいいと思いました」
「町で店を出そうとは思わなかったのか?」
「馬車がありましたから」
「……馬車があると、どうして旅になるんだ?」
「調合道具もありました」
「それは分かった」
「私には調合ができます」
「それも知ってる」
フィリエンヌは不思議そうにレオナールを見る。
「馬車と調合道具があって、私が調合できるなら、旅をしながら調合屋ができます」
「…………」
レオナールはしばらく黙った。
「何ですか?」
「いや。お前らしいと思っただけだ」
どうやら十五歳のフィリエンヌは、それだけで旅に必要なものがすべて揃ったと思ったらしい。
実際には道も知らなければ、野営の経験もない。金の管理も怪しい。料理については今さら言うまでもない。
それでも本人の中では、十分だったのだろう。
「それで、家にあったものを馬車へ積みました。本と、調合器具と、薬草と、衣類と、保存食と――」
「ちょっと待て。本は全部積んだのか?」
「はい」
「先に本から?」
「売ったら師匠が化けて出ますから」
「売ってねえだろ」
思わず言ってから、レオナールは息を吐いた。
「まあいい。それで?」
「全部積んだら、寝る場所がなくなりました」
「……は?」
「寝台にも本を置いたので」
「なんで寝台にまで積んだ」
「入りきらなかったからです」
レオナールは額を押さえた。
「それでどうした」
「寝台の本を床へ移しました」
「何も解決してねえな」
「寝られるようにはなりました」
「……そうだな」
もうそれでいいことにした。
「その日は馬車で寝ました。まだ家の前でしたけど」
「次の日に出たのか?」
「そのつもりでした」
フィリエンヌは一度言葉を切った。
「でも、朝に馬車を掃除していたら、寝台の下に何かいました」
「……何か?」
「キュ?」
足元から声がした。
二人が同時に下を見る。
シュネリュがこちらを見上げていた。
「お前の話だ」
「キュ」
分かっているのかいないのか、シュネリュは尻尾を揺らした。
「寝台の下の床板が一枚だけ浮いていました。開けたらシュネリュがいました」
「師匠から聞いてなかったのか?」
「何も」
「……よくそのまま一緒に連れてきたな」
「師匠の馬車にいましたから」
「それだけか?」
「はい」
レオナールはシュネリュを見る。
シュネリュもレオナールを見る。
「……お前も大概だな」
「キュ?」
何を言われたのか分かっていないらしい。
「それで、シュネリュと一緒に旅に出ました」
「行き先は?」
「決めていませんでした」
「道は?」
「よく知りませんでした」
「野営は?」
「したことがありませんでした」
「金の管理は?」
「今より苦手でした」
レオナールは目を閉じた。
「よく俺と会うまで無事だったな」
「私もそう思います」
「お前が言うな」
思わず返すと、フィリエンヌは不思議そうに首を傾げた。
足元でシュネリュが、
「キュ」
と鳴いた。
それからフィリエンヌは、シュネリュと二人で旅を始めた。
行き先も決めず、馬車を走らせて。
そしてしばらくして――レオナールと出会った。
「それで、しばらく旅をしてレオナールと会いました」
フィリエンヌはそう言って、カップへ口をつけた。
「……冷たいです」
今さら気づいたらしい。
レオナールも自分のカップに触れてみる。とっくに冷めていた。
「そりゃ、それだけ話してりゃ冷めるだろ」
「長くなりましたね」
「俺が聞いたんだから気にするな」
レオナールはフィリエンヌを見る。
昨夜まで知らなかったことばかりだった。
幼い頃に両親とはぐれたこと。
師匠に拾われ、九年ほど一緒に暮らしたこと。
その師匠を十五歳で亡くしたこと。
半年もの間、一人で暮らしていたこと。
そして昨夜、腕の中で繰り返していた言葉。
『師匠……起きてください……』
「あれは、あの夜に言った言葉だったのか」
「何がですか?」
「昨日の寝言だ。師匠に起きてくれって言ってただろ」
「ああ」
フィリエンヌは少し考えてから頷いた。
「言いました。何度も」
「……そうか」
あのときフィリエンヌは、夢の中でもう一度あの雷雨の夜にいたのだ。
レオナールは眉間へ手をやりかけて、やめた。
「お前、昨日俺のところに来たとき、師匠のことを思い出してたのか?」
「そこまでは考えていませんでした」
「違うのか?」
「雷が怖かったので、レオナールのところへ行きました」
あまりにもそのままの答えだった。
「……俺のところなら怖くないと思ったのか?」
「はい」
即答され、今度はレオナールが黙る。
「レオナールは強いですから」
「雷とは戦えねえぞ」
「知っています」
「じゃあ何でだ」
「分かりません」
フィリエンヌは少し考える。
「でも、レオナールの腕の中にいたら怖くありませんでした」
レオナールはしばらく何も言わなかった。
「……そうか」
「はい」
フィリエンヌは冷めたお茶をもう一口飲もうとする。
「待て」
「はい?」
「そんな冷えたの飲むな。淹れ直す」
「まだ残っていますよ」
「いいから」
レオナールは立ち上がり、二人のカップを持つ。
湯を沸かし直しながら、昨夜聞いた寝言をもう一度思い出した。
十五のときは、雷雨の夜に一人で師匠の手を握っていた。
昨夜は一人ではなかった。
それでいい。
「レオナール」
「何だ」
「私も何かしますか?」
「座ってろ。茶を淹れるだけだ」
「はい」
背後から素直な返事が聞こえる。
レオナールは小さく息を吐き、湯が沸くのを待った。




