第25話 雷雨とフィリエンヌ
初めての定休日から、また数日が過ぎた。
その間も店は変わらず客が訪れ、傷薬を中心に薬はよく売れていた。
レオナールは朝食を作り、買い出しへ行き、窓口が忙しければ販売を手伝い、夜になれば帳簿をつける。
フィリエンヌは薬を作り、客に薬を売り、薬草を整理する。
シュネリュは気が向けば窓口の近くに座り、飽きれば馬車の中へ戻って昼寝をしていた。
そんな毎日が、すっかり当たり前になりつつある。
そして明日が定休日という日だった。
朝からよく晴れていた空は、昼を過ぎた頃から少しずつ様子を変え始めていた。
午前中まで馬車の中へ差し込んでいた日差しが弱くなり、時折吹き込んでくる風も少し強くなっている。
窓口の外を見たレオナールは眉を寄せた。
「天気、崩れそうだな」
販売用の薬を並べ直していたフィリエンヌも、窓の外へ顔を向ける。
「そうですね。朝は晴れていたのに」
「夏の天気なんてそんなもんだ」
遠くの空には、いつの間にか厚い雲が広がり始めていた。
まだ雨は降っていない。
だが、このままいつもの時間まで店を開けていれば、帰る頃に客が雨に降られるかもしれない。
レオナールはしばらく空を眺めてから、窓口へ視線を戻した。
「今日は少し早く閉めるか」
「もうですか?」
「ああ。この空じゃ、このあと客も減るだろ。明日は定休日だし、薬も残ってる」
フィリエンヌが並んでいる薬へ目を向ける。
今日の客足はそれほど多くなかった。傷薬も咳止めも、明後日の営業に困らないだけの数は残っている。
「分かりました」
フィリエンヌは素直に頷き、窓口の片づけを始めた。
レオナールも外へ出していた木札を片づける。
明日は七日ごとに設けた定休日だということも、今では常連客の間ですっかり知られるようになっていた。
窓口を閉じる。
そのときだった。
遠くから、低い音が聞こえた。
ゴロゴロ――。
まだ、かなり遠い。
レオナールが空を見上げる。
「雷か」
馬車へ戻ると、フィリエンヌが販売用の薬を棚へ戻しているところだった。
ゴロゴロ――。
もう一度。
フィリエンヌの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
手にしていた瓶を棚へ置くと、何事もなかったように次の瓶へ手を伸ばす。
レオナールはその横顔を見た。
だが、何も言わなかった。
まだ雨は降っていない。
遠くの雷も、こちらへ来るとは限らない。
ただ、先ほどよりも風が強くなっていた。
風に煽られ、馬車の外で何かが大きくはためく音がした。
レオナールはそちらへ目を向ける。
「……洗濯物」
フィリエンヌも顔を上げた。
「あ」
二人はほぼ同時に馬車の外へ出た。
朝から干していた洗濯物が、強くなった風に大きく揺れている。
レオナールは自分の服を取り込みながら、隣で寝巻を外しているフィリエンヌを見る。
「そっち、飛ばされる前に取れよ」
「取ってます」
言っている間にも風が吹き、フィリエンヌの手にした寝巻が大きく膨らんだ。
「わっ」
慌てて両手で抱え込む。
レオナールは残っていた一枚を物干しから外した。
「ほら、戻るぞ」
「はい」
洗濯物を抱えて馬車へ戻る。
シュネリュも外へ出ようとしていたが、二人が戻ってくるのを見ると素直に中へ引き返した。
最後にレオナールが扉を閉めた直後、屋根を何かが小さく叩いた。
ぽつ。
少し間を置いて、もう一つ。
ぽつ、ぽつ。
「間に合いましたね」
「ああ」
その言葉が終わる頃には、雨粒の音が増え始めていた。
レオナールは抱えていた洗濯物を置き、窓から外を見る。
先ほどまで遠くにあった黒い雲が、いつの間にか空の大半を覆っている。
ゴロゴロ――。
低い雷鳴が、また遠くから響いた。
フィリエンヌは何も言わなかった。
ただ、抱えていた洗濯物を胸元で少し強く抱き直した。
雨はほどなく本降りになった。
馬車の屋根を叩く雨音が絶え間なく続き、時折強い風が車体を揺らす。
取り込んだ洗濯物を片づけ終えたフィリエンヌは、棚に残っていた薬の整理を始めた。
明日は定休日だ。急いでする必要のある仕事ではないのだが、何もせずにいる方が落ち着かないらしい。
レオナールも帳簿を開き、今日の売上を確認する。
しばらくは雨音だけが馬車の中に響いていた。
ゴロゴロゴロ――。
先ほどより、明らかに近い。
レオナールが顔を上げる。
フィリエンヌは棚の前に立ったまま動いていなかった。
手には薬の瓶を持っている。
「フィリエンヌ」
呼ばれて、フィリエンヌがゆっくり振り返った。
「はい?」
その顔を見て、レオナールは眉を寄せた。
さっきまでと比べて、明らかに顔色が悪い。
「雷、苦手なのか?」
フィリエンヌは少しだけ黙った。
「……少し」
ゴロゴロ――。
また雷が鳴る。
フィリエンヌの肩が小さく揺れた。
――少し、という顔じゃないだろう。
そう思ったが、レオナールは口には出さなかった。
「そうか」
それだけ言って帳簿へ視線を戻す。
理由を聞いたところで、雷が止むわけでもない。話したければ自分から話すだろう。
フィリエンヌも再び棚へ向き直った。
だが、それから雷が鳴るたびに、瓶を動かす手が止まった。
ほんの一瞬。
止まっては動き、また鳴れば止まる。
レオナールは帳簿へ目を落としたまま、その気配を何度も感じていた。
夕食の時間になっても、雨は弱まらなかった。
今日は早じまいしたこともあり、レオナールはいつもより少し早く夕食の支度を始めた。
鍋から立ち上る湯気と料理の匂いが馬車の中に広がっていく。
フィリエンヌも薬の整理を終え、いつもの席についた。
「食うぞ」
「はい」
三人で夕食を始める。
シュネリュはいつもと変わらず食事に夢中だった。
フィリエンヌも普段通り食べているように見える。
ゴロゴロゴロ――。
雷鳴が響いた。
フィリエンヌの匙が止まる。
だが、すぐにまた動き始めた。
レオナールは何も言わず、自分の食事を続ける。
しばらくして、また雷が鳴った。
ゴロゴロゴロゴロ――。
先ほどより長く、音も大きい。
フィリエンヌの肩にわずかに力が入る。
「……冷めるぞ」
「はい」
それだけ声をかけると、フィリエンヌはまた食べ始めた。
怖いなら怖いと言えばいい。
だが、本人が何も言わない以上、レオナールもそれ以上は聞かなかった。
食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
レオナールが食器を片づけていると、フィリエンヌはいつものように調合台へ向かおうとする。
「今日は薬、作らなくていいだろ」
フィリエンヌが足を止めた。
「でも、まだ時間がありますよ」
「今日早く閉めた分、薬も残ってる。明日は休みだ。急いで作るものもないだろ」
「……そうですね」
フィリエンヌは調合台から離れた。
いつもなら薬を作っている時間が、そのまま空く。
ゴロゴロゴロ――。
また雷が鳴った。
フィリエンヌの身体がわずかに強張る。
レオナールはそれを横目で見ながら、洗い終えた食器を置いた。
「今日は早めに休むか」
「はい」
フィリエンヌは素直に頷いた。
その返事があまりにも素直だったことに、レオナールは何も言わなかった。
食器を片づけ終えると、フィリエンヌは清拭のための桶を用意した。
外では相変わらず雨が降り続いている。
屋根を叩く雨音に混じって、時折低い雷鳴が響いていた。
フィリエンヌが桶に水を入れて戻ってくる。
「レオナール」
名前を呼ばれ、レオナールはいつものように背を向けた。
衣擦れの音がして、しばらくすると水を絞る音が聞こえてくる。
ゴロゴロゴロゴロ――。
雷鳴が長く響いた。
水を使う音が止まる。
ほんの少し間を置いて、また布を絞る音が聞こえ始めた。
レオナールは背を向けたまま、眉を寄せる。
「終わりました」
振り返ると、フィリエンヌは先日の定休日に買った薄手の寝巻へ着替えていた。
いつも通りに見える。
だが、顔色は夕食のときよりも悪くなっている。
「次、俺が使うぞ」
「はい」
レオナールも清拭を済ませ、薄手の寝巻へ着替えた。
その間にフィリエンヌは自分の寝台へ入り、毛布を軽く身体にかけている。
シュネリュもいつもの場所で丸くなっていた。
ゴロゴロゴロ――。
雷鳴が響く。
フィリエンヌが毛布の端を握った。
レオナールはそれを見たが、何も言わなかった。
「おやすみなさい、レオナール」
「ああ。おやすみ」
フィリエンヌが横になる。
レオナールは灯りを少し落とし、いつもの杯と酒を取り出した。
杯に酒を注ぎ、レオナールはいつものように少しずつ口へ運ぶ。
雨はまだ降り続いていたが、雷鳴は先ほどより間が空くようになっていた。
レオナールは杯を手にしたまま、フィリエンヌの寝台へ目を向ける。
毛布に包まり、こちらへ背を向けて横になっている。
雷が苦手だとは知らなかった。
昼間は少しと言っていたが、どう見ても少しではない。
それでも理由を聞くつもりはなかった。
話したくなれば、そのうち自分から話すだろう。
ゴロゴロ――。
遠くで雷が鳴る。
毛布がわずかに動いた。
まだ起きているらしい。
レオナールは残っていた酒を飲み干した。
今日はこれくらいにしておいた方がよさそうだ。
杯を片づけ、灯りをさらに落とす。
「おやすみ、フィリエンヌ」
返事はなかった。
眠ったのか、それとも目を閉じているだけなのかは分からない。
レオナールも自分の寝台へ入り、横になった。
雨が屋根を叩く音を聞きながら目を閉じる。
遠くでは、まだ低い雷鳴が続いていた。
やがてレオナールの意識も、ゆっくりと眠りへ沈んでいった。
どれくらい眠っていたのか。
寝台のすぐそばに人の気配を感じる。
レオナールは飛び起き、反射的に戦闘態勢へ入った。
バリバリッ――!
突然の雷鳴。
続いて、
ドンッ――!
腹に響くような音が続いた。
昼間とはまるで違う。
雨も激しさを増し、馬車の屋根を叩く音がうるさいほど響いている。
レオナールは周囲へ意識を巡らせ、気配の主を探す。
その目に映ったのは、薄暗い馬車の中に立っているフィリエンヌだった。
「……フィリエンヌ?」
「レオナール……」
震えた声を聞いた瞬間、レオナールは警戒を解いた。
暗くて顔色まではよく見えない。だが、胸元で握られた両手が小さく震えているのは分かった。
「どうした」
聞くまでもないことだった。
それでもレオナールが声をかけると、フィリエンヌは少し俯いた。
「……一緒に寝てもいいですか?」
バリバリ――。
また雷が鳴った。
フィリエンヌの肩が大きく揺れる。
レオナールは何も聞かなかった。
寝台の端へ身体を寄せ、フィリエンヌ一人分の場所を空ける。
「……来い」
「はい」
フィリエンヌは小さく頷くと、レオナールが空けた場所へ身体を滑り込ませた。
同じ寝台に入ったフィリエンヌは、レオナールのすぐ隣で身体を小さくしていた。
狭い寝台だ。二人で横になれば、嫌でも身体が触れるほど距離が近い。
フィリエンヌがそっとレオナールの方へ寄ってくる。
その身体を、レオナールは自然と腕の中へ迎え入れた。
抱き寄せてみて、少し驚く。
思っていたよりも小さい。
そして、柔らかい。
腕に力を入れれば壊れてしまいそうなほど華奢な身体が、ぴたりと胸元に収まっている。
こんなに小さかったのか。
そう思った、そのときだった。
バリバリバリッ――!
フィリエンヌの身体が大きく跳ねた。
ドンッ――!!
「……っ!」
胸元に顔を押しつけるようにして、フィリエンヌがレオナールの寝巻を強く握った。
身体が震えている。
先ほどまでの小さな震えとは違う。腕の中で分かるほど、はっきりと震えていた。
レオナールは反射的に抱く腕へ力を込める。
「大丈夫だ。ここにいる」
返事はない。
ただ、寝巻を握る指にさらに力が入った。
やがて胸元がわずかに濡れていることに気づく。
フィリエンヌは声を上げることもなく、泣いていた。
レオナールは何も聞かなかった。
片腕で身体を抱いたまま、もう一方の手を背中へ回す。
ぽん、ぽん。
ゆっくりと背中を叩く。
子供をあやすような仕草だと思ったが、今はそれ以外に何をすればいいのか分からなかった。
「大丈夫だ」
ぽん、ぽん。
「俺がいる」
また遠くで雷が鳴った。
フィリエンヌの身体が震える。
レオナールは腕を緩めず、同じ速さで背中を叩き続けた。
どれくらいそうしていただろう。
激しく馬車の屋根を叩いていた雨が、少しずつ弱まり始めた。
雷も先ほどまでのように真上から落ちてくることはなくなっている。
ゴロゴロ――。
まだ近い。
だが、先ほどまでの腹に響くような音ではない。
レオナールの胸元に顔を埋めていたフィリエンヌの震えも、少しずつ小さくなっていた。
寝巻を強く握っていた指からも、ゆっくりと力が抜けていく。
「……落ち着いたか?」
返事はなかった。
代わりに聞こえてきたのは、小さな寝息だった。
どうやら眠ったらしい。
レオナールは小さく息を吐いた。
背中を叩いていた手を止め、腕の中のフィリエンヌを見る。
泣いた跡は残っているが、先ほどまでの強張った表情は少し和らいでいた。
「……まったく」
これならもう大丈夫だろう。
そう思い、レオナールも目を閉じようとした。
「……師匠……」
小さな声に、閉じかけた目を開く。
フィリエンヌは眠ったままだ。
「師匠……起きてください……」
「……フィリエンヌ?」
返事はない。
閉じた瞼の端から、一筋の涙が流れた。
「師匠……」
「…………」
レオナールは何も聞かなかった。
眠っているフィリエンヌに聞いたところで答えが返ってくるはずもない。
ただ、昼間から雷が鳴るたびに見せていた反応と、今の寝言が無関係だとは思えなかった。
もう一度、フィリエンヌの背中へ手を回す。
ぽん、ぽん。
「大丈夫だ。ここにいる」
眠っているフィリエンヌに聞こえているのかは分からない。
それでもレオナールは、ゆっくりと背中を叩き続けた。
やがて涙は止まり、フィリエンヌの呼吸も再び穏やかになっていく。
ゴロゴロ――。
雷はさらに遠くなっていた。
レオナールは腕の中のフィリエンヌを起こさないよう身体の力を抜く。
今夜はあまり眠れそうにない。
それでも、このままでいいと思った。
背中に添えた手はそのままに、レオナールも静かに目を閉じた。
遠ざかっていく雷の音を聞きながら、浅い眠りへと落ちていった。
次にレオナールが目を開けたとき、馬車の中はうっすらと明るくなっていた。
雨音はもう聞こえない。
昨夜あれほど鳴り響いていた雷も、いつの間にかすっかり遠ざかっていた。
あまり眠れなかったせいか、身体には少し重さが残っている。
それでも、いつものように夜中に何度も目を覚ましたときとは少し違う気がした。
胸元から聞こえてくる小さな寝息に、レオナールは視線を落とす。
フィリエンヌはまだ腕の中にいた。
昨夜泣いていたことなど嘘のように、穏やかな顔で眠っている。
背中に回した腕もそのままだった。
起こさないよう腕を抜こうかとも思ったが、その前にフィリエンヌの瞼がゆっくりと開いた。
「おはよう。もう大丈夫か?」
「……はい」
まだ少し眠そうな声だった。
フィリエンヌはレオナールの胸元に頭を預けたまま、すり、と頬を寄せる。
「レオナールの腕の中は気持ちいいですね」
「……そうか」
すり、ともう一度。
昨夜あれほど震えていた姿を見ているだけに、元気になったのはいい。
いいのだが、このままではいつまで経っても起きられそうにない。
「大丈夫なら起きろ。俺は朝飯を作る」
「はい」
フィリエンヌは素直に身体を起こした。
レオナールも寝台から降り、大きく身体を伸ばす。
その気配に気づいたのか、シュネリュも寝床から顔を上げた。
「キュ」
「お前も起きたか」
シュネリュが身体を伸ばしてから、いつものようにレオナールの後をついていく。
その背中を見ながら、フィリエンヌが小さく口を開いた。
「……ありがとうございました」
レオナールには届かないほどの、小さな声だった。
フィリエンヌはそれ以上何も言わず、寝台から降りる。
レオナールは調理台へ向かい、朝食の支度を始めた。
今日は定休日だ。
急いで店を開ける必要もない。
昨夜の雷雨が嘘だったかのように、馬車の中にはいつもの朝が戻っていた。




