第21話 今日こそ帰るんですよね
朝になって、フィリエンヌが窓口を開けると、間もなく客がやってきた。
「傷薬を一つくれ」
「はい」
フィリエンヌが傷薬を一つ取り出す。男は代金を払いながら言った。
「昨日も来たんだが、閉まってたぞ」
「昨日は休みました」
「数日前も休んでなかったか?」
「休みました」
「この店、ずいぶん休みが多いな」
「そうですか?」
「……店の人間が聞くな」
少し離れたところで帳面を開いていたレオナールが顔を上げた。
「昨日は何してたんだ?」
「月香草を採りに行っていました」
「月香草?」
横で薬を見ていた女性が反応した。
「月香草を採ったのかい?」
「はい」
「じゃあ、香料や香水も作るのかい?」
「作れますよ」
「売るなら今度見せておくれ」
「作れたら売りますね」
「楽しみにしてるよ」
女性が笑った。その後ろから別の声がする。
「傷薬一つくれ」
「はい」
「私は腹痛の薬を」
「俺も傷薬」
「少し待ってください」
さらに客が来た。昨日休んでいた分までまとめて来たのかと思うほど、窓口の前に人が増えていく。
「傷薬ですね」
フィリエンヌが薬を渡そうとする。
「嬢ちゃん、こっちも頼む」
「少し待ってください」
薬を渡し、代金を受け取る。在庫帳を開こうとしたところへ、また声が飛んだ。
「腹痛の薬をください」
「はい」
「フィリエンヌ」
「はい?」
「今の傷薬は書いたか?」
「今書きます」
「俺の薬はまだか?」
「少し待ってください」
フィリエンヌは在庫帳へ傷薬を一つ減らしたことを書き、腹痛用の薬を取る。
「こちらですね」
「代金は?」
「あ」
先ほどの客が硬貨を持ったまま立っていた。
「これでいいのかい?」
「はい。ありがとうございます」
代金を受け取り、今度は収支帳を開く。
「傷薬も一つ!」
「はい」
「フィリエンヌ」
「はい?」
「収支帳」
「今書いています」
「その前の客だ」
「…………」
フィリエンヌの手が止まった。窓口には客。卓上には薬と硬貨。在庫帳と収支帳は両方開いたままになっている。
「どこまで書きましたっけ」
「止めろ」
「はい?」
「一度止めろ」
レオナールが窓口へ出た。
「少し待ってくれ。順番に対応する」
客を一度待たせ、それから卓上を見る。
「最後に売ったのは?」
「傷薬です」
「その前」
「腹痛用です」
「その前は?」
「……傷薬です」
「帳面には?」
「…………」
「分からなくなったな?」
「はい」
レオナールは額を押さえた。
昨日までなら何とか処理できていた。だが今日のように何人も同時に注文してくると、薬を渡し、代金を受け取り、二冊の帳面へ記録する。その途中で次の客に声をかけられる。
これを繰り返していては、どこまで処理したのか分からなくなる。
「紙はあるか?」
「あります」
「一枚くれ」
フィリエンヌが紙を渡す。レオナールはそれを窓口の内側の壁へ貼った。
傷薬。
腹痛用。
咳止め。
解熱薬。
ほかにも販売している薬の名前を縦に書いていく。
「これからは、売ったらここに一本線を引け」
「一本線?」
「一つ売れたら一本。二つ売れたら二本。二種類以上なら、それぞれに売れた数だけ線を引く」
「帳面は?」
「営業中は書かなくていい。閉店してから、この紙を見てまとめて書く」
フィリエンヌは壁に貼られた紙を見た。
「いいか。一人ずつだ。薬を渡す。代金を受け取る。それから印をつける」
「薬を渡す、代金を受け取る、印をつける……」
「それが終わってから次の客だ」
「薬を渡す、代金を受け取る、印をつける……」
「フィリエンヌ」
「薬を渡す、代金を――」
「覚えたか?」
「たぶん」
「そこは覚えろ」
「……はい」
販売を再開する。
「傷薬ですね」
「一つ頼む」
「はい」
薬を渡す。代金を受け取る。紙の傷薬の横へ一本線を引く。
「薬を渡す、代金を受け取る、印をつける……」
「嬢ちゃん、何をぶつぶつ言ってるんだ?」
「忘れないようにしています」
「……大変だな」
「はい」
「そこで肯定するな」
レオナールが横から言った。
次は腹痛用の薬。薬を渡す。代金を受け取る。印をつける。
その次は傷薬を二つ。薬を渡す。代金を受け取る。印を二つ。
しばらくすると、フィリエンヌはもう呟かなくなっていた。それでも手順は変わらない。
薬を渡す。代金を受け取る。印をつける。
レオナールはしばらく見ていた。
「できるじゃないか」
「何がです?」
「……何でもない」
昼を過ぎても、いつもより客は多かった。それでも新しいやり方にしてからは、途中で何をしていたのか分からなくなることはなかった。
夕方、最後の客を見送り、窓口を閉じる。
「疲れました」
「今日は多かったからな」
レオナールは壁の紙を外した。傷薬の横には何本もの線が並んでいる。
「傷薬十二。腹痛用が五。咳止めが四……」
「分かりやすいですね」
「ああ。最初からこうすればよかったな」
販売メモを見ながら在庫帳へ販売数を書き、残っている薬を数える。
「……傷薬が一つ合わない」
「どれです?」
「帳面より一つ少ない」
フィリエンヌも棚を覗き込んだ。
「売ったんでしょうか」
「最初に混乱していたときだろうな」
「では一つ減らします?」
「ああ。今日はそれでいい。明日からは必ず印をつけろ」
「薬を渡す、代金を受け取る、印をつける」
「もう覚えただろう」
「忘れないようにです」
「……そうか」
ほかの薬も確認する。最初の混乱でいくつか記録と数がずれていたが、販売メモを使い始めてからの数は合っている。
「これなら使えそうだな」
「はい」
レオナールは収支帳を開いた。薬ごとの値段は決まっている。販売数が分かれば、その日の売上も計算できる。
「私も書きます?」
「いい。今日は俺がやる」
「どうしてです?」
「今日は客が多かったからな。お前は見ていろ」
「明日からは私が?」
レオナールの手が少し止まった。
「……そうだな」
「分かりました」
フィリエンヌは素直に横から帳面を見ている。
転記を終え、レオナールは販売メモを手に取った。そのまま丸めようとする。
「待ってください」
「何だ」
「裏が使えます」
「…………」
レオナールは紙を裏返した。何も書かれていない。
「明日は裏を使いましょう」
「……そうだな」
「紙も無駄にしてはいけませんよ」
「お前に言われると妙に腹が立つな」
「どうしてです?」
「何でもない」
販売メモは丸められることなく、明日も使えるよう棚へ置かれた。
夕食はレオナールが作った。肉と野菜を煮込み、パンを温める。シュネリュの分は味をつける前にいつもの量を取り分けた。
「シュネリュ」
「キュ」
置かれた器へシュネリュが寄っていく。フィリエンヌとレオナールも食事を始め、食べ終える頃にはシュネリュの器もきれいに空になっていた。
食器を片づけると、フィリエンヌは桶へ水を汲み、布を浸した。
「向こうを向いていてください」
「ああ」
レオナールが背を向ける。後ろから布を絞る音が聞こえた。
「明日は傷薬を作った方がいいですね」
「ああ。確かに在庫が少なくなっていたな」
「明日の分は足ります?」
「今日と同じくらい売れたら怪しいな」
「では作ります」
「そうしろ」
しばらくして声がした。
「もういいですよ」
振り返ると、フィリエンヌはすでに着替えを終えていた。
「その桶を借りるぞ」
「はい」
「水は替える」
「そうしてください」
レオナールは新しい水を汲み、布を浸した。それからフィリエンヌを見る。
「向こうを向いていろ」
「はい」
フィリエンヌは素直に背を向けた。レオナールは上着を脱ぎ、水で濡らした布を絞る。
「レオナール」
「何だ」
「傷薬以外に少ないものはありましたか?」
「……今聞くことか?」
「思い出したので」
「解熱薬が少なかった。軟膏も確認しておけ」
「分かりました」
フィリエンヌは振り返る様子もなく、棚の薬を眺めている。
レオナールは身体を拭きながら、一度だけフィリエンヌがこちらに背を向けていることを確認した。
清拭を終えて着替える。
「もういいぞ」
「はい」
フィリエンヌが振り返った。そして不足分の傷薬を作り始めた。
先ほど聞いた解熱薬の残りも確認し、少しだけ補充する。軟膏はまだ足りそうだった。
調合を終えると、器具を片づける。
「レオナール」
「何だ」
「今日こそ宿へ帰るんですよね」
「……そうだな」
「今回の宿は気に入らないんですか?」
「いや。いい宿だと思う」
「では、今日は宿で寝るんですね」
「…………」
レオナールは黙った。
宿には柔らかい寝台がある。荷物も置いたままだ。宿代も払っている。しかも明日で契約が切れる。
今日くらいは戻ればいい。
戻るべきだ。
「レオナール?」
「シュ、シュネリュが」
「シュネリュ?」
フィリエンヌがクッションを見る。シュネリュはすでにそこで丸くなっていた。
「今日、あまり夕食を食べていなかった」
「そうですか?」
「ああ」
「いつも通り食べていたと思います」
「……夜中に腹を空かせるかもしれない」
「今まで夜中に食べたことはありませんよ」
「今日から食べるかもしれない」
「今日から?」
「…………」
レオナールはシュネリュを見る。シュネリュは満足そうに目を閉じている。
「私がいますよ?」
「お前の飯ではシュネリュの味覚が狂う」
「…………」
今度はフィリエンヌが黙った。
「何だ」
「そこまでまずくありません」
「俺は食ったことがある」
「食べられるとは言っていました」
「食べられるとは言った。うまいとは言っていない」
「…………」
「フィリエンヌ?」
「もういいです」
フィリエンヌはシュネリュのクッションへ視線を戻した。
「シュネリュにはちゃんと作れます」
「そうか」
「作れます」
「……分かった」
少しだけ返事が冷たい。
別に拗ねさせるつもりはなかった。
レオナールは黙った。
「では、レオナールは宿へ――」
「念のためだ」
「はい?」
「今夜はここにいる。念のためだ」
「………そうですか?」
「そうだ」
押し切った。
フィリエンヌはまだ何か言いたそうだったが、それ以上は聞かなかった。
「では、おやすみなさい」
「ああ」
フィリエンヌが寝台へ入る。レオナールは補充された薬の数を確認し、在庫帳へ書き込んでから、自分で作った寝台へ横になった。
シュネリュは起きない。夜食を欲しがる様子もない。
「…………」
明日で宿の契約が切れる。更新するなら、明日だ。
レオナールは目を閉じた。
どうするかは、明日考えればいい。




