第20話 何か話してください
「そろそろ帰るか」
レオナールの声に、フィリエンヌは月香草の群生から目を離した。
「はい」
採取した花を入れた籠を確認する。
どの籠にも柔らかな布が敷かれ、その上に月香草が重ならないよう並べられている。蓋を閉じれば、持ち帰る準備は終わりだった。
レオナールが指先を動かした。
重ねた籠がふわりと浮きかける。
「待ってください」
「何だ?」
「籠は私が持ちます」
「行きと同じように運べばいいだろう」
「駄目です。浮かせると揺れるかもしれません」
「その程度で傷むのか?」
「可能性があります」
「……分かった」
レオナールは魔法を解いた。
薬草のことについてフィリエンヌがこういう顔をしたときは、何を言っても譲らないことが分かってきた。
フィリエンヌは籠を重ね、両手で持ち上げた。
「シュネリュ。帰りますよ」
返事がない。
「シュネリュ?」
少し離れた草の上に、クリーム色の小さな身体が丸くなっていた。
フィリエンヌが籠を抱えたまま近づく。
「寝ています」
「寝ている?」
「はい」
レオナールもそばへ行った。
シュネリュは目を閉じ、尾を身体へ巻きつけている。近くまで来ても耳さえ動かない。
「ずいぶん深く寝ているな」
「案内してくれて疲れたんでしょうか」
「さっきまで歩いていただろう」
「たくさん歩きましたから」
「俺たちも同じくらい歩いたぞ」
「シュネリュは小さいです」
「……そういうものか?」
「たぶん」
フィリエンヌはシュネリュを見た。それから自分が抱えている籠を見る。
レオナールも同じものを見た。
「……どうするんだ」
「何がです?」
「こいつだ」
「レオナールがお願いします」
「俺が?」
「私は籠を持っていますから」
「……そうなるか」
レオナールは眠っているシュネリュの前へしゃがんだ。
以前、頭へ手を伸ばしたときは避けられた。
そっと手を伸ばす。
今度は逃げなかった。
身体の下へ手を入れ、ゆっくり抱き上げる。
柔らかな毛が手のひらへ触れた。
思っていたより軽い。
毛の奥には確かな温かさがある。
シュネリュは少し身じろぎしたが、目を覚まさなかった。
腕の中へ収まると、そのまま力を抜いている。
「起きませんね」
「……ああ」
「やっぱり疲れたんでしょうか」
「そうかもしれないな」
レオナールは腕の中を見た。
シュネリュは眠っている。
だから触れただけだ。
分かっている。
それでも、初めて知った感触だった。
「行きましょう」
「ああ」
フィリエンヌは月香草の入った籠を慎重に抱え、歩き始めた。
レオナールもシュネリュを抱いたまま、そのあとを追う。
林を抜け、馬車へ戻るまでシュネリュが起きることはなかった。
馬車へ入ると、レオナールはシュネリュをいつものクッションへ寝かせた。
身体を離しても起きない。
シュネリュは少しだけ丸くなり、そのまま眠り続けた。
「本当によく寝ているな」
「疲れたんですね」
フィリエンヌはすでに籠の方を見ていた。
蓋を一つ開ける。
甘い香りが広がった。
「……」
二つ目を開ける。
三つ目も開ける。
籠の中にこもっていた月香草の香りが、一気に馬車の中へ満ちていった。
「いい香りです」
「……そうだな」
レオナールは答えた。
林で嗅いでいたときより、ずっと濃い。
フィリエンヌは花の状態を一つずつ確認している。
「傷んでいません」
「それはよかったな」
「浮かせなくて正解でした」
「分かったから、早く出るぞ」
「はい」
籠の蓋は開けたままにした。密閉して香りがこもれば花が傷むと、師匠の備忘録に書かれている。
フィリエンヌは御者台へ向かった。
レオナールも地図を持って隣へ座る。
馬車がゆっくり動き出した。
「最初の分かれ道は右だ」
「はい」
夜道を進む。
来たときより周囲は暗い。
灯を御者台の脇へ吊るし、レオナールは地図と道を見比べた。
「次は左」
「はい」
フィリエンヌが左へ曲がる。
今度は間違えなかった。
「ちゃんと左へ行きましたよ」
「当たり前のことで得意そうにするな」
「行きは間違えたので」
「自覚はあったのか」
「ありましたよ」
「ならいい」
しばらく進む。
馬車が小さく揺れる。
レオナールは一度瞬きをした。
妙に瞼が重い。
夜だからだろう。
昼間に寝ていないのもある。
フィリエンヌは昼寝をしていたが、自分は起きていた。
当然、眠くもなる。
「次を右だ」
「はい」
また沈黙する。
馬車の車輪が土を踏む音だけが続いた。
レオナールはもう一度瞬きをした。
少し長かった。
「フィリエンヌ」
「はい?」
「さっき採っていた夜露苔は何に使う」
「調剤の補助です」
「それは聞いた。どういう薬に使うんだ」
「いろいろ使えますよ。薬効を安定させたり、ほかの薬草同士の馴染みをよくしたりします」
「そうか」
「はい」
会話が終わった。
また車輪の音だけになる。
レオナールは前を見る。
眠い。
「質がいいと言っていたな」
「夜露苔ですか?」
「ああ」
「夜露を多く含んでいましたから。色もよかったです」
「色?」
「はい。良質なものは少し青みが強くなります」
「俺には同じに見えた」
「違いますよ」
「そうか」
「はい」
また終わった。
レオナールは地図を見る。
文字が少しぼやけた気がして、目を細める。
「レオナール」
「何だ」
「次はどちらです?」
「………右だ」
「分かりました」
危なかった。
道案内をしなければならない。
ここで寝るわけにはいかない。
「フィリエンヌ」
「はい?」
「師匠とはどのくらい一緒にいた」
「急ですね」
「いいから答えろ」
「小さい頃からです」
「何歳までだ」
「旅に出るまでです」
「そうか」
また会話が終わった。
「……」
「……」
「フィリエンヌ」
「はい?」
「好きな食べ物は」
「食べられるものなら何でも」
「知っている」
「では、どうして聞いたんです?」
「……確認だ」
「そうですか」
フィリエンヌが少しだけ首を傾げた。
「今日はよく質問しますね」
「そうか?」
「はい」
「気のせいだ」
「そうでしょうか」
「前を見ろ」
「見ています」
しばらく進む。
街道まではまだ少しある。
沈黙。
瞼が重くなる。
レオナールは腕を組み直した。
「フィリエンヌ」
「はい」
「何か話せ」
「何をです?」
「何でもいい」
「急に言われてもありません」
「何かあるだろう」
「……薬草の話なら」
「それでいい」
「どの薬草です?」
「何でもいい」
「難しいですね」
「なぜだ」
「たくさんありますから」
「じゃあ、町に来る前に採っていた銀葉草はどうだ」
「銀葉草ですか?」
「ああ」
フィリエンヌは少し考えた。
「傷薬に使います」
「あのよく売れているやつか」
「はい。傷が膿むのを防ぐ働きがあります」
「質が違うと効き目も変わるのか?」
「変わりますよ。状態のいい銀葉草ほど、その働きも強くなります」
「それで、あのときあれだけ採っていたのか」
「質がよかったので」
「知っている」
フィリエンヌはそのまま銀葉草の話を続けた。採る時期による違い。乾燥させるときの注意。傷薬へ使う場合の処理。
聞けば聞くほど話が出てくる。
「……詳しいな」
「薬草なので」
「そうだったな」
また少し沈黙する。
レオナールの瞼が落ちかけた。
「フィリエンヌ」
「はい?」
「続けろ」
「まだですか?」
「まだだ」
「では、保存するときは――」
フィリエンヌは再び話し始めた。
落ち着いた声だった。一定の調子で続く。
「フィリエンヌ」
「はい?」
「もう少し大きな声で話せ」
「どうしてです?」
「聞こえにくい」
「隣にいますよ」
「……いいから」
「はい」
少しだけ声が大きくなった。
眠気は消えなかった。
それでも、話している間はまだ意識を保てる。レオナールはときどき質問を挟み、フィリエンヌは聞かれたことに答えた。
やがて街道へ出た。
ここまで来れば道は分かる。
町の灯りが見えたとき、レオナールは小さく息を吐いた。
「着きましたね」
「ああ」
「眠いんですか?」
「少しな」
「昼寝をしなかったからですね」
「……たぶんそうだ」
それ以外に思い当たる理由はなかった。
馬車をいつもの場所へ戻す。
レオナールは中へ入ると、シュネリュを見た。
まだクッションで眠っている。
「まだ寝ているのか」
「よほど疲れたんですね」
フィリエンヌはそう言うと、すぐに籠へ向かった。
レオナールは何か言おうとしたが、欠伸が出そうになって口を閉じる。
「俺は寝る」
「はい。おやすみなさい」
「……ああ」
寝台へ向かう。
外套を脱いで掛ける。
横になると、身体が一気に重くなった。
宿へ戻るという考えは浮かばなかった。
目を閉じる。
そのまま、レオナールの意識は落ちた。
フィリエンヌは籠の中から月香草を一輪ずつ取り出した。
新しい布を広げ、花同士が重ならないように並べていく。傷んだものがないか確認し、採取したときと香りが変わっていないかも確かめる。
一つ目の籠が空になる。続いて二つ目、三つ目。
馬車の中には月香草の甘い香りが満ちていた。
フィリエンヌは黙々と作業を続ける。
レオナールが寝ていることも、シュネリュがまだ起きないことも、もう意識にはなかった。今、フィリエンヌの頭にあるのは、採ってきた月香草のことだけだった。
すべての花を並べ終え、もう一度状態を確認する。
このまま一日、自然乾燥させる。それが終われば次の処理へ進める。
「これで大丈夫ですね」
ようやくフィリエンヌの意識が月香草から離れた。
そこで自分の服に土がついていることに気づく。林の中を歩き、何度もしゃがんで採取したのだから当然だった。
桶に水を汲み、布を濡らして固く絞る。身体を拭き、着替えを済ませる。
今日はレオナールに向こうを向いてもらう必要もなかった。
フィリエンヌは桶を片づけ、自分の寝台へ行った。
腰掛けたところで、隣の寝台を見る。
レオナールは眠っていた。
珍しい。
いつもならフィリエンヌが寝る頃にもまだ起きている。帳面を確認していたり、翌日の準備をしていたりする。
そういえば、身体を拭いている間も、水を使っている間も起きなかった。
フィリエンヌは少しだけレオナールの顔を見た。
何かがいつもと違う。
しばらく見て、気づいた。
「……眉間に皺がありません」
起きているときは、よく皺が寄っている。
眠っている今はない。だからいつもより顔が穏やかに見えるらしい。
「寝るとなくなるんですね」
フィリエンヌは納得して、今度は二つの寝台の間を見た。
シュネリュもクッションの上で眠ったままだった。
「……まだ寝ています」
林で眠ってから、一度もまともに起きていない。
レオナールも珍しく早く寝た。
そしてフィリエンヌ自身も、少し眠かった。昼間に寝たはずなのに、先ほどから瞼が重い。
「……何か変ですね」
フィリエンヌは首を傾げた。
レオナール。
シュネリュ。
自分。
三人とも眠い。
何が同じだったのだろう。
少し考えてから、フィリエンヌは作業を終えたばかりの月香草へ視線を向けた。
布の上に並んだ花から、甘い香りが漂っている。
「……そういえば」
師匠の備忘録に書いてあった。
月香草には鎮静作用がある。
「もしかして……これでしょうか」
シュネリュは群生地で眠った。
レオナールは帰り道から眠そうだった。
自分にも少し眠気がある。
今回採った月香草は、香りの強くなる時期に採ったものだ。それも、かなり状態がいい。
「……」
フィリエンヌは考えた。
確かめてみたい。
花のままでは香りの強さを揃えにくいが、精油なら量を調整できる。
「精油にしたら……」
隣で眠っているレオナールを見る。
「レオナールで試せますね」
今回採ったものの中でも、特に状態のいい花から取れた精油を少し残しておけばいい。試すなら、品質のいいものの方がいい。
一滴くらいならどうだろう。枕へ垂らせば、香りも分かりやすい。
「……」
欠伸が出た。
フィリエンヌは口元を押さえる。
まだ考えたいことはあったが、頭が少しぼんやりしてきた。
「……あとは明日考えましょう」
寝台へ入る。
ほどなくして、フィリエンヌも眠った。
馬車の中には、月香草の香りだけが静かに残っていた。
翌朝。
レオナールは目を開けた。
よく眠った気がする。
身体を起こし、しばらくぼんやりする。
昨夜は町へ戻って、そのまま寝た。
ずいぶん疲れていたらしい。
隣を見ると、フィリエンヌはまだ眠っている。
二つの寝台の間では、シュネリュが起きていた。
「キュ」
目が合った。
昨夜のことを思い出す。
林から馬車まで、腕に抱いて運んだ。
柔らかかった。
レオナールは少し考えてから、シュネリュへ手を伸ばした。
シュネリュが一歩離れた。
「…………」
「キュ」
レオナールは伸ばした手をしばらくそのままにしていたが、やがて引っ込めた。
「さて、朝食を作るか」




