第19話 なぜ俺はここにいる
朝食を終えると、フィリエンヌは師匠の備忘録を卓上へ広げた。
昨日から何度も読んでいるページである。
月香草。
今頃の時期、夜になると香りが強くなる。花を採取するなら、その時間がいい。
フィリエンヌは記述をもう一度読み、必要なものを確認した。
「籠……布……」
手元を見る。
収支帳があったので開いた。
「待て」
「はい?」
「……昨日も同じことをしなかったか」
「何がです?」
「それは収支帳だ」
「はい」
「なぜそこに書く」
「書くところがありますよ」
「そういう問題じゃない」
レオナールが収支帳を取り上げた。
代わりに、新しい紙を一枚出してフィリエンヌの前へ置く。
「こっちに書け」
「これならいいんですか?」
「ああ」
「分かりました」
フィリエンヌは紙へ必要なものを書いていった。
浅い籠。柔らかい布。採取用の小刀。
備忘録へ視線を戻す。
「籠は何個いる」
「いくつかです」
「いくつかでは分からないだろう」
「採れる量によります」
「一つにまとめられないのか?」
「花を重ねると傷みます」
備忘録の記述を指で追う。
「密閉するのも駄目です。香りがこもると花が傷むと書いてあります」
「だから浅い籠をいくつも使うのか」
「はい。布を敷いて、その上に重ならないように並べます」
「ずいぶん場所を取るな」
「仕方ありません」
薬草のことになると迷いがない。
必要なものを書き終えると、三人で町へ出た。
最初に向かったのは籠を扱う店だった。
フィリエンヌは大きさと深さを一つずつ確かめ、底の浅いものを選んでいく。
一つ、二つ、三つ。それでもまだ選んでいる。
「……いくつ買うつもりだ」
「もう少しです」
「全部使うのか?」
「採れれば」
「一つに入らないのか?」
「重ねると花が傷みます」
「それは聞いた」
結局、浅い籠をいくつも買った。
次は布だった。籠の底へ敷くため、厚すぎず、花を傷めない柔らかなものを選ぶ。
フィリエンヌが布を指先で確かめている間、レオナールは積み重なった籠を見た。
「これを全部、林まで持っていくのか?」
「全部に月香草が入ればいいですね」
「見つかるかどうかも分からないんだろう」
「はい」
「……そうか」
フィリエンヌの買い物が終わると、レオナールは別の店へ向かった。
「まだ何か買うんですか?」
「地図だ」
「地図なら必要ですね」
「お前が言うと不安になるな」
「どうしてです?」
「何でもない」
周辺の林まで載っている地図を選ぶ。
そのあとレオナールが見つけたのは、小さな灯だった。
持ち手があり、吊り下げることも、そのまま置くこともできる。
「灯りならありますよ」
「手に持つものだろう」
「はい」
「採取するときは両手を使うんじゃないのか」
「……そうですね」
「これなら枝に掛けても地面に置いても使える」
「なるほど」
灯も買った。
さらにレオナールは水筒を二つ選んだ。
「水も持っていくんですか?」
「ああ」
「馬車に水はありますよ」
「林で喉が渇くたびに馬車まで戻るつもりか?」
「……それは面倒ですね」
「だから持っていく」
「なるほど」
「お前、採取するもの以外は何も考えていなかったな」
「籠と布と小刀は考えましたよ」
「全部、薬草のためだろう」
「はい」
「そうだろうな」
買い物を終えて馬車へ戻る。
フィリエンヌはさっそく籠の中へ布を敷いた。採取用の小刀も確認する。
レオナールは買ってきた地図を卓上へ広げた。
教えてもらった場所は街道から外れている。途中までは馬車で行けるが、その先は歩くことになるらしい。
道順を確認し終えた頃には、昼が近くなっていた。
レオナールが昼食の支度を始める。
「今日は店を開けないんだな」
「はい。夜に採取するので」
「そうか」
「午後は寝ます」
「夜に行くからか?」
「はい。起きたら出発します」
「ああ」
フィリエンヌがレオナールを見る。
「?」
「どうした?」
「もしかしてレオナールも行くのですか?」
「……ああ」
「そうなんですか?」
「一人で行くつもりだったのか」
「シュネリュもいますよ」
足元にいたシュネリュが顔を上げた。
「キュ」
レオナールはシュネリュを見た。それからフィリエンヌを見る。
「……そうか」
「はい」
何か問題があるのか、フィリエンヌには分からなかった。
昼食を終えると、フィリエンヌは本当に寝台へ向かった。
「では、寝ます」
「ああ」
「おやすみなさい」
「昼だぞ」
「でも寝るので、おやすみなさいです」
「……そうか」
シュネリュもフィリエンヌについていった。
フィリエンヌが寝台へ入り、シュネリュは二つの寝台の間に置かれたクッションの上で一度回って丸くなる。
しばらくすると、馬車の中は静かになった。
レオナールは卓上に広げた地図へ目を落としていたが、やがて顔を上げた。
フィリエンヌは眠っている。
シュネリュも動かない。
宿を取ったのは何日前だったか。
一週間分を先払いした。荷物も置いてある。寝台もある。食事も出る。
それなのに、ほとんど戻っていない。
店を手伝った。収支帳を見た。在庫を数え、在庫帳まで作った。
何もなかった空間には、自分で作った寝台がある。壁には外套を掛ける場所まで作った。
そして今は、夜になればフィリエンヌと一緒に林へ行くつもりでいる。
頼まれてもいない。
レオナールは眠っているフィリエンヌを見た。
「……なぜ俺はここにいる」
返事はない。
当然だった。
しばらく考える。
少なくとも、今夜ついていく理由ならある。
夜の林へ一人で行かせるのは危険だ。
本人はシュネリュがいるから一人ではないと思っているらしいが、そういう問題ではない。
行ったことのない場所でもある。
だからついていく。
それでいい。
レオナールはそう考え、地図へ視線を戻した。
夕方、フィリエンヌが目を覚ました。
シュネリュも少し遅れて身体を起こし、大きく伸びをする。
「起きました」
「見れば分かる」
「何か食べます?」
「そのつもりだ」
夜の林でどのくらい時間がかかるか分からない。
簡単に食事を済ませ、出発の準備をする。
フィリエンヌが籠を持とうとすると、そのうちのいくつかがふわりと浮いた。
「持てますよ」
「帰りは中身が入るだろう」
「まだ入ってません」
「今から分ける必要はない」
レオナールは籠と灯、水筒を馬車の前方へ運んだ。
日が傾き始めている。
「御者は俺がやる」
「私がやります」
「道が分かるのか?」
「地図があります」
「……俺がやる」
「この馬車は私の方が慣れていますよ」
「…………」
それはそうだった。
「分かった。道は俺が見る」
「お願いします」
フィリエンヌが御者台へ座る。シュネリュもそばへ乗った。
馬車が動き出す。
街道を進んでいる間は問題なかった。
やがて目的地へ向かう脇道へ入る。
ここからは自走機能を使えない。
レオナールが地図と周囲を見比べた。
「次を右だ」
「分かりました」
分かれ道へ差しかかる。
フィリエンヌが手綱を動かした。
「こちらですね」
「それは左だ」
「……」
「右はこっちだ」
「分かっています」
「今、左へ行こうとしただろう」
「少し間違えました」
「少しか?」
馬車の向きを直す。
しばらく進むと、また分かれ道があった。
「今度は左だ」
「はい」
フィリエンヌが右を見る。
「そっちは右だ」
「……分かっています」
「本当に?」
「はい」
レオナールはフィリエンヌを見た。
「こんなのでどうやって一人で行くつもりだった」
「地図を見ます」
「今読めてないよな」
「レオナールが言うので見ていません」
「…………」
そういう問題だろうか。
だが少なくとも、同行した判断は間違っていなかった。
レオナールは地図へ視線を戻した。
日が沈みきる頃、馬車を止めた。
ここから先は道が細く、馬車では入れない。
レオナールは灯に明かりを入れ、持ち手を確かめる。籠のいくつかを浮かせ、水筒も持った。
シュネリュが先に地面へ降りる。
「キュ」
「行きましょう」
三人で林へ入った。
木々の隙間から月明かりは差しているが、足元までは届かない。灯を頼りに進んでいく。
教えてもらった場所までは、それほど遠くなかった。
「この辺りのはずだ」
「はい」
フィリエンヌが周囲を見る。
草。低木。苔。
月香草らしいものはない。
「ありませんね」
「場所を間違えたか?」
「この辺りだと言っていました」
「もう少し探すか」
「はい」
三人で周囲を探す。
フィリエンヌはしゃがみ込み、葉を確認しては立ち上がった。
しばらく歩いたところで、急に止まる。
「ありました」
「月香草か?」
「違います」
フィリエンヌはその場へしゃがんだ。
「夜露苔です」
「今夜探しているものではないだろう」
「でも、調剤の補助に使えます」
湿った地面に広がる苔を指先で確かめる。
「夜露苔は夜に採った方が薬効が高いんです。それに、これはかなり状態がいいです」
「……採るのか?」
「少しだけです」
フィリエンヌは採取を始めた。
状態のいいところだけを選び、丁寧に採っていく。
少しだけと言ったはずなのに、隣にも良質なものを見つけたらしい。少し移動して、またしゃがむ。
「フィリエンヌ」
「はい」
「月香草は?」
「探します」
「いつ」
「これを採ったらです」
また視線が夜露苔へ戻った。
完全に意識がそちらへ向いている。
「……この薬草馬鹿が」
小さく呟く。
「何か言いました?」
「何も言っていない」
「そうですか」
フィリエンヌは採取を続けた。
少し離れたところで見ていたシュネリュが、やがて近づいてくる。
「キュ」
フィリエンヌは気づかない。
シュネリュの尾が、ふさりとその腕へ触れた。
「ん?」
ようやくフィリエンヌが顔を上げる。
「シュネリュ?」
「キュ」
シュネリュはそのままとことこと歩き出した。
数歩進み、振り返る。
「どうしたんでしょう」
「さあな」
シュネリュがまた歩く。
「行ってみます」
「……お前は迷いがないな」
フィリエンヌが立ち上がってついていく。
レオナールも灯と籠を連れて、そのあとを追った。
シュネリュは林の奥へ向かっている。時折立ち止まり、二人が来ていることを確かめるように振り返った。
しばらく進んだところで、フィリエンヌが足を緩めた。
「……匂いがします」
「何の?」
「花です」
さらに進む。
香りが少しずつ強くなっていく。
甘いが、重くはない。夜の冷えた空気の中へ静かに溶け込むような香りだった。
シュネリュは迷わず先へ進む。
木々が少しずつ疎らになり、その向こうに月明かりが見えた。
林を抜ける。
フィリエンヌの足が止まった。
開けた場所いっぱいに、月明かりが落ちている。
その下に淡い色の小さな花が咲いていた。
一つや二つではない。
いくつもの月香草が群れになり、夜風に細い茎を揺らしている。
風が通るたび、花も一緒に揺れた。
月明かりが、その上を静かに滑っていく。
フィリエンヌは動かなかった。
探していた月香草が目の前にある。
それなのに籠を下ろすことも、近づくこともしない。
レオナールが隣を見る。
「フィリエンヌ?」
少し遅れて、フィリエンヌが瞬きをした。
「……あっ。採取しなくては」
ようやく籠を下ろし、花のそばへしゃがむ。
葉の形を確認する。香りを確かめ、備忘録にあった特徴と照らし合わせる。
「月香草です」
声が少しだけ弾んでいた。
フィリエンヌは状態のいい花を選び、茎を傷めないよう小刀を使って一つずつ採っていく。
採った花は、柔らかな布を敷いた籠へ置く。隣の花と重ならないよう、一輪ずつ丁寧に並べる。
一つ目の籠が埋まると、次の籠へ移った。
レオナールは灯を近くの枝へ吊り下げ、邪魔にならない場所で待った。
シュネリュも少し離れたところにいる。
フィリエンヌは黙々と採取を続けた。
目の前にはまだ多くの月香草が咲いている。それでもすべてを採ることはせず、状態のいいものを選びながら、必要な量だけを籠へ収めていった。
最後の花を並べる。
フィリエンヌは籠を一つずつ確認した。花はどれも重なっていない。傷んだものもない。
「終わりました」
小刀をしまい、立ち上がる。
それから、もう一度振り返った。
採らずに残した月香草が、月明かりの下で揺れていた。
夜風が通り、甘い香りが流れていく。
フィリエンヌはしばらくその景色を見ていた。
「……きれいですね」
「ああ」
月香草の群生地の幻想的な風景を分かち合いたいです。




