31.リュディガー公爵領へ.
「おはようございます、オリヴィエさま。起こしてしまいましたか?」
寝間着姿に薄手のカーディガンを羽織った婚約者に、小さく頭をさげる。
ベッドから起きあがる彼女は少し険しい顔をしていた。
「おはよう。トレーネから話は聞いているわ。秘書官が慌ててやってきたのよね?」
「はい。リュディガー公爵領に食人鬼の群れが発生し民を襲っています。王宮と魔術師協会は宮廷魔術師として事態の終結を求めています」
「……リュディガー公爵領ね、まったくリリーが関わっていないか心配だわ」
「オリヴィエさま?」
なにやら呟いたようだが、彼女の声はジャレッドにはよく聞こえなかった。
「なんでもないわ。それにしてもまだ任命されていないのも関わらず、宮廷魔術師として働けなんて王宮も魔術師協会も随分と無茶を言うのね」
いかにも不服と言わんばかりに肩をすくめるオリヴィエ。
「俺以外にすぐに動ける人間はいないようですし、相手が相手なので下手な魔術師を派遣できないこともあるんでしょうね」
「気をつけてね。そして、必ず無事に帰ってきなさいよ」
「……はい。もちろんです」
少しだけ意外だった。オリヴィエのことだから王宮と魔術師協会に不満を露わにすると思っていた。
危険に赴くジャレッドに対し、もっと不安や心配、そして反発があると勝手に考えていたのだ。
「ふふっ、すんなりいってらっしゃいと言ったのがおかしいのかしら?」
見透かされたような彼女の声に、ジャレッドは頷きそうになった。
「本当はね、ジャレッドに危険目に遭ってもらいたくないわ。リュディガー公爵領なんて遠くにいって、なにかあったらどうしようかと不安で胸が苦しいもの。でも、わたくしは公爵家の娘であり、いずれあなたの、宮廷魔術師の妻となる女よ。これからも同じ想いは何度もするでしょうね、もう覚悟くらいは決めているわ」
「オリヴィエさま」
「なによりも苦しんでいる民がいるのよ。邪魔なんてできないわ。わたくしの婚約者だけが多くの人を救えることを――誇りに思うわ」
ジャレッドが思っていた以上にオリヴィエは強く、そして気高い。
彼女のことを軽んじていたわけでは決してないが、反対されるかもしれないと勝手な考えを抱いていた自分を恥じた。
「だからわたくしは笑顔であなたを送りだすわ。でも、覚えておいてね、表面所はともかく内心は不安よ。できることなら拘束してもいかせたくないわ」
だけど、と彼女は困ったようにほほ笑んだ。
「そう決意に満ちた顔をしているのだから、あなたに救われたことのあるわたくしが止めることなんてできないのよ」
オリヴィエはジャレッドに近づくと、腕を広げ抱きついた。
小刻みに震えているのは彼女の言葉通り、不安を抱いているからだろう。安心させるよう抱きしめ返すと、少しだけ震えが収まる。
「わたくしの体温を覚えていてね。戦いの最中でも、絶対に忘れないで」
「忘れたりなんかしません」
ジャレッドは不安に揺れる婚約者の体を力強く抱きしめた。彼女の温もりを忘れないように、己に刻みつけるように強く力を込めた。
「イェニーにもちゃんと顔を見せてあげるのよ」
「わかってます」
「お義父さまと、お祖父さまにはわたくしから手紙を送っておくから心配しないでね」
「助かります。ハンネローネさまには心配かけたくありませんが、大丈夫そうならオリヴィエさまからお伝えください」
「ええ、わかったわ」
名残惜しいがそっと体を離す。
温かさが離れていくことが、身を裂かれるほどつらく思う。だが、今は時間がない。
後ろ髪を引かれる思いで、ジャレッドは婚約者に無理して笑顔を作る。
「いってきます」
「いってらっしゃい。わたくし、ずっと待っているから」
必ず帰ってくることを誓い、ジャレッドは屋敷を出発した。
※
オリヴィエと別れたジャレッドは、もうひとりの婚約者のイェニーに任務を告げた。
彼女もまたオリヴィエと同じように王宮と魔術師協会に不満を抱いたが、兄と慕う婚約者の決意を見て取り、必ず帰ってくることを約束して送りだしてくれた。
宮廷魔術師になれば、今後もこのように家族に心配をかけることが増えるのかと思うと心が痛む。
だが、するべきことをしなければならない。
最低限の装備を整え、戦闘衣を身につける。応接室に待機しているエルネスタのもとへいこうとしたジャレッドの前に、プファイルとローザが現れ、屋敷を守ってくれることを約束してくれた。
感謝の言葉を述べ、エルネスタと合流すると、先に向かったアリーを追いかけ魔術師協会に向かう。
王立魔術師団の属する魔術師であるエルネスタは、身体能力も高く、急ぐため走ったジャレッドに問題なくついてきてくれた。
協会に到着すると息を切らせていたが、問題はないようだ。
「マーフィーさま!」
「デニスさん!」
ジャレッドたちを見つけてすぐに駆け寄ってきたのは、協会職員デニス・ベックマンだ。
彼は大きく頭を下げ謝罪の言葉を発する。
「突然の依頼申し訳ございません。各宮廷魔術師はそれぞれ任務があり、王立魔術師団を動かすには時間がかかってしまいます。ですので、マーフィーさまに頼るしかありませんでした。お受けくださり、心から感謝します」
「いいんです。リュディガー公爵領の人たちを思えば、断る理由なんてありません。謝罪なんてしないでください」
デニスが悪いわけではないので彼に謝罪されても困ってしまう。
苦笑を浮かべ、ジャレッドは問う。
「現状でわかっていることを報告してもらってもいいですか?」
「もちろんです。まず、食人鬼の群れは三百体ほどだと思ってください」
隣でエルネスタが息を飲んだのがわかった。秘書官たちの報告よりも百体ほど多い。
「どうしてそんな大規模に?」
「原因は不明です。なにせ食人鬼に関してはわからないことだらけですので……」
「そうですね、今は理由を考えてもしかたがないですよね。移動手段は用意してくれていますか?」
「すでに飛竜を三体用意してあります。王都からリュディガー公爵領中心部の街まで直線距離で二時間です。飛竜に関しては以前ご説明したので省きますが、戦闘の準備だけはしておいてください」
二時間は長い。すでにリュディガー公爵家の兵が対応に当たっていると聞いているが、それだけ時間があれば状況も変化していくだろう。
「まだ公爵領の中心部に届いていませんが、あと半日もあれば危険です。それだけは阻止しなければなりません」
「わかっています。俺は、どう戦えばいいですか? 向こうで誰かの指揮下に?」
「いいえ、公爵家のほうで現地に詳しい人間を用意してくださるとのことですので、その方を連れてマーフィーさまの好きなように戦ってください」
「好きにって……どういう?」
「二時間連絡が取れなくなる以上、状況がどう転んでいるのか不明です。現地ではリュディガー公爵自ら指揮を執っていますが、場合によっては撤退していることもあるでしょう。この隙に蛮族が攻めてくる可能性もないわけではありません。申し訳ありませんが、臨機応変に対応していただくしかないのです」
無理もない。緊急を要する事態なのに、悠長に作戦を考えている暇はないだろう。
「お伝えさせていただきますと、リュディガー公爵領は魔物の襲撃にあたり対応策が長年にわたって考えられています。今回もそれに従い戦っているはずです。心苦しく思いますが、もし公爵自らが到着時に指揮を執っているのならば、指揮下にはいることもひとつの手段かもしれません」
「そうですね、そうします。俺にはあちらの勝手がわかりません。なら、向こうで邪魔にならないよう、指揮下に入ります」
ジャレッドの言葉を受け、デニスはあからさまにほっとした表情を見せた。
そして、感謝の言葉を伝え、先だって使い魔を放つと言ってくれたので甘えることにした。これで、向こうについて説明する手間が省ける。
「では飛竜にお乗りください! 今回は速度重視のため、荷物は積んでいません。必要な物資はすべてリュディガー公爵家からいただけることになっておりますので、そちらでお願いします!」
そう言い残して駆けていく彼を見送り、ジャレッドたちは飛竜の元へ向かう。
「意外でした」
「うん?」
突然、エルネスタが呟いたので顔を向けると、彼女は目を丸くしながらこちらを見ていた。
「ベックマンさまがジャレッドさまに、リュディガー公爵の指揮下に入ってもらいたかったことに気づいていたのですね」
「口にはださなかったけど、なんとなく伝わっていたよ」
正直、なぜはっきり言わないのだと疑問だった。
「全員が全員ではありませんが、魔術師はプライドが高いのです。宮廷魔術師の方々は知りませんが王立魔術師団の役職につく人間は、たとえ貴族が相手でも傲慢に振る舞うこともあります」
「俺もそう思われたのかな?」
ならば心外だ。
「いえ、ジャレッドさまの人となりはベックマンさまのほうがよくご存知でしょう。おそらく……魔術師団員の私の手前、直接言葉にできなかったのだと思います」
「なるほど。一応、聞いておくけど、俺が公爵の指揮下にはいることに不満はないよね?」
「もちろんです。むしろ、そう決断してくださったジャレッドさまに安心しています」
「ならよかった。じゃあいこう」
「はい!」
ジャレッドたちは、そのまま足を進める。
飛竜のもとにはアリーが待っていた。
「ジャレッドさまっ、エルネスタっ! 準備はできていますよ!」
幸いなことに飛竜を操る竜騎士は、ラウレンツとともに依頼を受けたときの二人と、彼らの先輩竜騎士だった。知った顔に挨拶を交わし、飛竜に乗り込む。
「マーフィーさまっ、どうかお気をつけて!」
使い魔を放ち終えたデニスが大きく手を振る。彼に応えるよう頷くと、ジャレッドたちをのせた飛竜は大きく上昇するのだった。




