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『夜の汀』

——————

「あの」


 仙波宅から徒歩8分。閑静な住宅街を抜けた先のドラッグストアに、三人の姿はあった。

 卵を手に取りながら「俺ん家の近くのスーパーより20円も安いじゃねーかよ……どうなってんだよ物価高糞が……」などと、昨今の情勢に怒りを露わに憤慨する静へ、珍しくも星翠は自ら声を掛けた。

「ぁあ、どうした?おやつは300円までだぞ」

「え、えと……おやつは大丈夫なんだけど」

「なんだ、別件かよ。どうした?」

 手に取った卵を買い物カゴへ放り込んでから、静が足を止め、言葉に耳を傾ける。

 

 想像していたよりもずっと真剣に聞く姿勢をとったその姿に、微かな申し訳なさを感じつつ……けれど自分から声を掛けた手前、今更言葉を有耶無耶にするのも些か不義理である様に思え、星翠はずっと抱いていた疑念を、目の前の少年へと意を決して投げかけた。

「抄帷ちゃんと——花蕗君は、知り合って一年位なんだよね?その……どういうキッカケで二人は知り合ったのかな、って」

「なんだ、んーな事興味あんのかよ」

「う、うん。聞かない方が良かったりしたら、あれだけど……」

「んな事ぁねーけど……大した話でもねーぞ?」

「牛乳あったよー……と、どうしたの?二人共」

 やや困ったように頭を掻く静の背後から、言葉通り、手に低脂肪乳を携えた抄帷が顔を出す。

 ぱっと振り返るや牛乳を受け取りつつ、静はそのパッケージを念入りに確認する。

「ちゃんと消費期限なげー奴選んできたんだろうな」

「え、手前から取った。そういう決まりじゃないの?手前から取り」

「綺麗事で日々の家事が回ってたまるか。毎日使うもんはなるったけ長持ちするもの選ぶんだよ」

「——小姑」

「常識だっつーの」

「——っ」

 口元を押さえて笑いを堪える星翠を前に、抄帷と静が顔を見合わせ、互いに肩をすくめる。

「あなたのせいで笑われてしまった」

「アホ抜かせ。っと、ラジオネーム文学少女から質問来てたぞ」

「——何の話?」

 ぷるぷると笑みを堪え体を振るわせる少女を顎で指しながら、静が目線だけを抄帷へと向ける。

「俺とアンタが知り合った時の事聞きてーんだとよ」

「あー……」

 抄帷が一瞬口籠る。

 即断と即決を好み、明瞭で簡潔な物言いを信条としている彼女にしては極めて珍しいその姿に、星翠は思わず——自分が、触れてはいけない……なにか地雷の様な話題について尋ねてしまったのではないかと強い不安を抱いた。

 ただ、その心配自体はすぐに払拭されることとなる。それは他でもない、抄帷自身の言葉によって。

 

「——難しい」

「——難しい?」

 言葉を選ぶ事はあっても、言葉に迷う事はない。これまで二年近く見てきた友人の、らしくない不明瞭な言葉に、星翠は思わず鸚鵡返しをする。これに抄帷はこくんと頷き、更に一層考え込みながら、絞り出すようにその先を続けた。

「一言で説明するのが難しい様な、ちょっと……すごく奇妙なトラブルに巻き込まれてね。その折、この二枚舌に大きな大きな借りを作ってしまって。キッカケと言えば、それがキッカケかな」

「借り……」

 

 ——少し、意外だった。


 星翠から見た二人……合掌抄帷と花蕗静の間柄は、とにかく〝対等〟の一語に尽きるものだった。気を遣わず、気を遣わせず。互いが互いに媚びる事なく、へつらう事のない、対等な関係。

 その二人の関係性の根底が、『借り』というのが、星翠には俄かに信じられなかった。

 そして、それよりも更に意外だったのは——それを語る彼女の声色が僅かに暗く、仄かに沈み込んだものであった事。


 ——その声色は知っている。

 自らの不出来、他者への申し訳なさ。劣等感と息苦しさを内混ぜにした、苦々しい声色。星翠にとってそれは、余りにも身に覚えのある暗さだった。


 そんな沈んだ彼女の言葉はけれど、花蕗静によって一蹴される。

「はっ、何一つ貸し付けた覚えなんざねーな。第一そんな殊勝な人間かよ、テメー」

 吐き捨てる様に言い放たれた言葉。だが、それを発した少年の顔が柔らかく……ひどく優しい眼差しである事に、星翠はすぐに気が付いた。

 

「キッカケも、時間も。大した問題じゃねーし、気にする様な話でもねぇ。気に入らねーならつるまねーし、つるんでるってんなら——ま、そういうこったろ」

 積み上げた年月も、関係性の始まりも関係無い。ただ今ここに居る互いこそが全てだと、言い切るその姿に。星翠は、自身が感じていた羨望の正体にようやく思い至った。


「——すごいなぁ」

 ただ。行き当たったその感情を言葉にする事が——なにかひどく惨めな事であるように思えて。星翠は一言呟いて、後はただ頷くばかりだった。

 その姿を見つめながら……しかし特に何かを言うでもなく。買い物を終えた静は、二人と共にドラッグストアを後にした。


 ——————

 

「お嬢さんはよー、小説家とか目指してたりすんのか?」

 すっかり日の暮れた夜の道を歩きながら。先頭を歩く静がふと、そんな言葉を星翠へと投げかけた。

「えぇ⁉︎——っと、なんで?」

 問いへの答えではなく、質問の意図それ自体を尋ね返す言葉に、振り返りはしないまま、静は肩をすくめた。

「素人考えだよ。文芸コンクールのくだりに、アンタの部屋の本……本の虫が書き手を目指すってのは、ありきたりかも知らねーけど、的外れでもねーかなってな」

 言葉には恐らく、深い意味はないのだろう。軽い調子で問われたが故、か。

「——目指してた、時期もあったけど……今は、全然」

 不意に零れ落ちたのは、偽らざる本心だった。

「あれ、そうなの?」

 心底不思議そうに目を丸くしたのは、隣を歩く抄帷だった。彼女は仙波星翠の目指す場所を、知らず信じて疑っていなかったらしい。

「——ちなみに、何で今は目指していないのかとかって、聞いても良いのかな」

 控えめな問い掛けに——星翠は努めて何でもないように、笑顔を作ってみせた。

「んー……色々、かなぁ。才能みたいなのもそうだし、実際にそれを仕事にした時の……将来の安定とかを考えると、あまり現実的じゃないのかなって」

 才能という話をするならば、と。先を続けようとした抄帷が、すんでの所で思い止まる。


 才能の有無。

 他者と比較しての優劣を外野が口出す事に、抄帷は価値を感じていなかった。縁もゆかりもない世界で努力している誰かの判断を、聞き齧った知識や周囲から与えられた評価だけで線引き出来るなどとは、到底思っていなかった。

 ——仙波星翠は確かに、〝目指していた〟と言った。言い切ったその夢を諦めるに至るその逡巡など、他人にわかるわけがない。抄帷は、何を口にすればいいのか咄嗟にわからなかった。


「——ま、夢追っかけるだけが人生でもあるまいに。生きてりゃ夢だってコロコロ変わりゃすんだろ」

 

 故に。花蕗静が何を言葉にするのか、星翠と同じように……抄帷もまた、彼の次の言葉を待った。

 

「ただ、そうなー……他所様と見比べてしんどくなったから、ってのが理由だったら……それぁきっと、キッツイだろうな」

「——他所様、と?」


 足は止めず、振り返ることもない。焼け落ちた夕暮れの名残がようやく消え失せたばかりの青い夜の道を、ひどくのんびりと歩き続けながら、言葉は紡がれる。

「経験がねーもんでな、想像でしか物言えねーけどよ。誰かと競う様に出来てる枠組みの中で戦わなきゃなんねーと来りゃ、どうしたって自分と周りを見比べちまうだろって話でよ。てめぇに見切りを付けるってのも御立派な一つの才能だろーよ」

 その歩みが、一度だけ止まる。

 振り返ったその顔に、なにか思い詰めた様な気配はない。至って平常、ゆるく不遜な笑みだけがそこにあった。

 

「なにがどう捻じ曲がったのか知らねーけどよ。悪ぃが俺はアンタから熱視線浴びるに足るほど碌な男じゃねーし、てめぇ自身で見限る程、アンタは捨てたもんじゃねーと思うぜ」


 ——見抜かれている、と思った。

 自分のつまらない劣等感が……それを誤魔化すためにばかり費やされた言葉も、全て。

 耐え難い羞恥に、思わず頬が赤く染まるのを感じる。そしてきっとそれすら見透かしていたのだろう花蕗静は、話題がそこで停滞するのを嫌った。

「ま、凄くなけりゃ価値なし、なんてディストピアで生きてる訳でもなし。肩の力抜く訓練した方が余程有意義だぜ」

「あなたは普段からずっと抜き過ぎ、力」

「ほっといてくれ」


 ——それは決して、諦めることを肯定した言葉ではなかった。

 ただ、諦める事への迷いや葛藤に意味はあったと——それら全てに価値はあったのではないかと、仙波星翠に問い掛けていた。


 常と変わらない抄帷と静のやりとりの全てが、自身を気遣ってのものだとは思わない。けれども確かに向けられたその優しさに、懸命に明るい声色で新たな言葉を紡ぐ。そうでもしなければとても、平静を取り繕うことなど出来ないだろうから。

 

「そ、そういえばさっきの!超能力って、あれは何かゲームか何かの設定なの?それとも、アニメとか」

 口を突いたのは抱いていたもう一つの疑問。語られた、正に荒唐無稽。単なるその場の冗談……の、割に妙に細かいところまで情報が作り込まれた〝超能力〟。

 深い意味があった訳ではなく。とにかく今は一刻も早く、この胸を締め付ける感情から距離を置かなければ。その一心から出た問い掛けだった。


 静は軽く頭を掻き、抄帷は少しだけ柔らかく微笑む。

 二人にはこれ以上、少女の潤んだ瞳の理由を問い詰めるつもりは毛頭なかった。

 

「ぁあ?あー、あれはなー———」

 

 言い掛けて。先頭を歩いていた静が、不意に立ち止まった。

「——なんだ、ありゃ」

 何事かと、背中越しから星翠と抄帷が道の先へと視線を向ける。向けて、目を丸くした。


 閑静な住宅街、狭い路地。

 人の姿もない、青い夜の闇の只中。道の中央、彼らの行手を阻む様に。


 巨大な赤槍と盾を手に。黒鉄の騎士が立ち塞がっていた。

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