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『劣等と羨望』

——————


「今日はありがとうね、抄帷ちゃん」

 

 食事も終わり。後片付けの手伝いをしていたところ、不意に向けられた感謝の指し示すところが思い当たらず、抄帷は思わず小首を傾げた。

 そんな彼女へと向けられるのは、ただ穏やかなばかりの優しい笑顔。心底から嬉しそうに、月波は頬を緩ませた。

「遊びに来てくれてって事。星翠ちゃん、とても楽しそうだったから」

「あぁ……はい。そうだったら良いのですけれど、どうでしょう」

 少しだけ困った様に、抄帷は口の端に笑みを浮かべた。


 そもそも今日、合掌抄帷と花蕗静は友人として此処を訪れた訳ではない。仙波星翠の日常を蝕む奇怪な現象、その解決の糸口を探す為の調査——実務的な目的こそが来訪の動機であり、星翠の自室で交わした会話も、囲んだ団欒も……全ては紆余曲折の果てにたまたま行き当たっただけの、余暇と呼んでしまって差し支えのない時間であった。

 ドッペルゲンガーという異常に苛まれた仙波星翠の心労の幾許かが和らいだとして。それは所詮、不純に塗れた気遣いの結果でしかない。そんなものに感謝の言葉を向けられたからといって、それでは一体どんな顔をすればいいと言うのか。

 

 と。ふと気付くと、月波が抄帷の顔を覗き込む様にじっと見つめていた。

 不快感は一切無い、真っ直ぐな眼差し。ただ、その意図が分からず、困惑する。

 約数秒。ただ見つめられる時間が静寂として行き過ぎた後、月波が——どこか感心した様に小さく頷いた。

「静君もそうだけど、抄帷ちゃんも。凄く大人びてるわね」

「——そう、でしょうか。余り自分で感じた事はないのですけれど」

 言いながら、抄帷は改めて、誤魔化す様に小さく微笑んだ。そんな彼女の——決して謙遜では無い自己評価を、月波は首を振って否定する。

「立ち振る舞いもそうだし、雰囲気がね。それに二人とも、とっても気遣い屋さんだったから。星翠ちゃんのお友達がこんなに素敵な人達で、おばさん嬉しくて」

 心底からの言葉だと、疑う事を許さない真っ直ぐな笑顔。その眩しさに、抄帷がそっと目を伏せた。


 小さな棘が指先に刺さった様な、鋭利で微かな痛みが胸に疾る。純粋に過ぎる彼女の優しさを正面から受け取る資格が己にあるとはどうしても思えず——抄帷は思わず、本心を口にしていた。

「ありがとうございます——でも、私のはただの『真似』なんです」

「『真似』?」

 こくりと頷き、抄帷は顔を上げた。


「人を気遣う事、思いやる事。そうした全てを、まるで息をする様にやってのける人がいるんです。私の——誰かに対する気遣いや思いやりというのは、その人の真似でしかないんです」

 

 卑下している訳ではなかった。それは合掌抄帷にとっての単なる事実でしかなく……故に言葉に僅か暗さが伴った理由は単に、自らを買い被ってくれた友人の母に対する申し訳なさ以外には無かった。

「それはとても素敵な方だわ。ご家族かしら?」

「いえ、ちょっとした知り合いの様なものです」

 抄帷がちらと視線を飛ばして、すぐに手元へと戻す。

「私は元々誰かを気遣ったり、思い遣ったりというのが不得手で。そうしようと思わなければ、誰かを大事にする事も出来ない人間なんです。だから尚の事、その人の生き方は真似出来ないもので……だからこそ私も、少しでもそう在りたい、と。それだけなんですよ、本当に」

 その一瞬の機微を見逃さなかった月波が、抄帷に気付かれぬ様に——今し方彼女が向いていたのと同じ場所へと目線を移す。移してやはり、どうしようもないほど優しく微笑んだ。

「……じゃあその人は、抄帷ちゃんの憧れなのね」

「憧れ、ですか」

 数度の瞬き。やがて抄帷は、どこか何かを諦めたかの様な微笑みを改めて浮かべた。

「……そうですね。きっとそうなんだと思います——」

 そこまで言って、抄帷が慌てた様に口元を押さえる。そんな姿を、月波は優しく見つめるばかりであった。

「——初対面の方に、すみません。つまらない話を」

「ううん」

 ふるふると首を振ってから、

「やっぱり。星翠ちゃんのお友達が、抄帷ちゃんで良かったわ」

その視線の端に揺れる赤髪を映したまま、月波は今日一番の笑顔を見せた。

 

 ——————


「あら、やっちゃった」

 時刻は午後6時45分。

 長居を嫌った静と、それに倣う形で抄帷が帰り支度を整えていた丁度そのタイミング。キッチンから月波の困った様な声が聞こえた。

「どうしたの、母さん」

「明日使う予定だった卵と牛乳、切らしちゃってたの忘れてたわ……どうしようかしら」

「え、俺行きたくない」

 問い掛けた割に自分が駆り出されるのは不服らしい、陽夏が間髪入れずに拒否を表明する。

「わ、私行ってこよう、か?」

 やむを得ず、と言う訳でもなかったのだろうが。控え目に申し出た星翠を嗜めたのは、静だった。

「日も暮れるってのに、年頃の娘が一人ほっつき歩くなっつーの」

「ぇ、あ、ごめんな、さい……」

「月波さん、俺買ってきますよ。そこまでやったらお暇するんで」

「あら、でもそれは——」

「美味い飯頂いちゃってるもんで、この位させて貰えないとまたご馳走になれないっすから」

 月波の遠慮を先回りで潰し、静が立ち上がる。これに、特に何を打ち合わせていた訳でもなかったにも関わらず、抄帷もすぐさま倣った。

「あら、抄帷ちゃんももう行っちゃうの?」

「はい。長々とお邪魔してしまってすみませんでした。ご飯、ご馳走様でした」

 言いつつ、玄関へと向かう二人。その背中を見て、今日何度目かの感情に襲われた星翠が、微かに項垂れた。そんな我が子と、客人二人の背中とを交互に見やった後。ぽん、と。月波が手を叩いた。

「そしたらごめんなんだけど、やっぱり星翠ちゃんも一緒に行ってもらっていいかしら」

「え」


 驚きの声を挙げる星翠。振り返り、そんな母と娘を交互に見やって、静は困った様に頭を掻いた。

「マジで、気にしないでもらって大丈夫すよ。ちょっとしたお使いですし、ガキでもあるまいに」

「それでも、他所の息子娘さんを使いっ走りみたいにするのは気が引けるものなのよ、大人は。私の自己満足の為に——星翠ちゃん、お願い出来る?」

「それは……全然構わない、けど……」

「その代わり、静君。夜道、二人をお願い出来るかしら」

 月波に促され、星翠と抄帷を交互に見てから、観念した様に静が頷いた。

「お任せ下さいお母様、ってな。キチっと送り届けますんで、ま、のんびり待ってて下さいな」

「うん。よろしくたのんだ!」

 

 ——————


「静さん、靴めっちゃゴツいですね……それで学校行ってるんですか?」

 陽夏が珍しいものでも見た風に言う。

「おー、鉄板入りの特別性よ。2tまでならトラックに踏まれても耐えられる一品よ」

 言いながら静は、黒のコンバットブーツの紐を固く結ぶ。陽夏の言葉通り、それはとても、学生が通学に使うには些か以上に厳しい外観の代物であった。

「……通学中の事故対策?」

「ま、そんなとこだ。掛け捨てじゃねー保険なら掛けとくに越した事ねーんだよ。準備が万事、っつってな」

 続いて抄帷と星翠がそれぞれ自らのローファーに足を通す。準備が整った三人は玄関を潜る。

 三人は一様に振り返り、月波へと顔を向ける。代表して、という訳でもなかったが。やや高揚した様子で頬を紅潮させた星翠が小さく——それでも彼女にしては随分と明瞭な響きの声で、出立を告げる。

「じゃあ——行ってきます」

「はい、気を付けて!」


 にこやかな月波の笑顔を背に、三人は仙波宅を後にした。

 


 

 

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