『封露』
世界の解体が、止まる。
柔らかな光は、押し固められた石膏の様に。そこかしこに黒く、歪な亀裂を走らせていた。
いち早くその異変を察知したのは、この世界の創造主——『パラドクス』本体、仙波星翠。彼女の内側に存在する、能力の機能——その全容には含まれない明確なイレギュラー。
——なにかおかしい。
そう思うのとほぼ同時——解体寸前の世界の外殻より、轟音と共にソレは姿を現した。
紅き大槍で世界を突き崩し、侵入するは黒鉄の鎧。
その姿を、仙波星翠は知っていた。
「——マールス⁉︎」
言葉に続き、戦慄を覚えたのは抄帷。
〝雷霆〟の魔法使いを救うべく、別行動をとっていた。にも関わらず、現れたのは黒鉄の騎士ただ一人。導き出される結論は——ただ一つ。
「——————静——っ!」
赤髪の少年の、敗北。
そしてそれは即ち、彼の死を意味する。
——————
足元がぐらつく。
世界がまるで、自分を中心に軒並み崩落した様な墜落感と、焦燥。激しい眩暈の只中で、少女は浅く息を吐いた。
考えていなかった訳では無い。
仙波星翠の心を宿したとはいえ、相手は歴戦の兵。百戦錬磨の怪物。ならば、挑みかかったその果てが、結果が。好ましく無いものである可能性ならば、嫌と言うほど考えていた。
最悪が、現実に変わる。
途方も無いその絶望に、膝を折りそうになりながら——それでも。
——————
合掌抄帷は、折れなかった。
眼前の絶望が現実だとして——それでも、折れるわけにはいかなかった。
なぜならきっと。花蕗静なら立ち止まらない。
絶望の断崖でその身を焼きながら、それでも。自らが選び取った選択の責任を投げ出して震える様な無様を、きっと彼なら晒さない。信じたその姿が辛うじて、抄帷の足を、思考を支えた。
「————……——……っ——……」
そんな最中に在って尚、見過ごせない。それほどに、黒鉄の騎士の様子は、明らかに異常だった。
不規則に揺れる体躯。
小刻みに痙攣する手足。
百戦錬磨の兵にしては余りにも不恰好なその構えは、先程雷翼竜を強襲してきた際の完全無欠とは余りにも掛け離れた、異様さだった。
先んじて星翠が——一手遅れて、抄帷が確信する。
———正気を失っている。明らかに、厳格なる使命の徒としての機能を喪失している。
存在の定義云々は最早論じるに値しない。
眼前の黒鉄の騎士は、マールス・ブロワではない。
崩壊した魂の器が不完全なまま駆動している。それは彼女の——結局今でも捨てることの出来なかった負の感情、その怨嗟の具現に他ならなかった。
——————
友がいた。
愛した物語があった。
打ち立てた誓いが——覚悟があった。
けれど、人は変わらない。
思いの丈一つ。ただそれだけで、積み上げ、折り重なってきた弱さや怯えの全てが霧の様に晴れるなど、あり得ない。
この上無い勇気をくれたソムヌスの言葉が、今一度、自らを突き刺す刃となって喉元に突き付けられる。
あの異様の、異形の——悍ましさも、恐ろしさも。やはり等しく、仙波星翠が確かに持っている邪悪に違いなかった。
闇。
誰かにとっては瑣末なものかもしれない。
世界の危機とも、誰かの命とも程遠い。日常に潜む、ほんのささやかな落胆や諦めの累積。降り積もった小さな絶望達が今、幻想の似姿として自らを追い詰めていた。
人は変わらない。
ならばこの結末は、至極当然。
——————
赤き槍が、揺れる。
精緻の欠片もない、不気味で歪な挙動。それでも、無力な少女二人を殺めるには十二分。
放たれたその鋒を拒む術は、二人にはない。
この世界に、彼女達を救う何かなど、在りはしなかった。
『故に、此処に在る』
「——————これは……!」
黒鉄の亡霊の動作が阻まれる。
制したのは、光の柱。
白く輝く、幻想の天上兵器。
その名を『封露の天印』。
女王デケムによって支配され、花蕗静を追い詰めた、対象の自由を剥奪する〝天使〟の能力。
操るは、仙波星翠。
数多の解釈と物語によって現実を超越する、幻想世界の創造主。非実存をこそ操る、逆説の能力者。
——————
人は変わらない。
それでも、変わりたい。
私の内にある汚い感情を否定するつもりはない。
けれど、それが全てではないと証明したい。
私はきっと無価値で、無意味だ。
それでも。
私には価値があると、意味があると言い張ってみせる。
——————
「抄帷ちゃん!私の後ろに!」
人は変わらない。
それでも、私は変わってみせる。
「今度は私が!抄帷ちゃんを守ってみせる‼︎」
私は今、ここで。
今日までの私自身を、私の弱さを打倒する。
今、ここで。




