『異界莫逆』
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その光景を。その言葉を。
きっと生涯、忘れることはないと思った。
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燻る煙の只中を、駆ける。
戦闘が始まってから一体どれくらいの時間が経ったのか。瞬き程か、或いは永劫よりも長い時間か。わからぬままけれど、現実として既に鉛の様に重たくなった両脚を引き摺って、駆ける。
「——っ、『来迎、秋夜』——!」
懸命に詠唱を。だが、肉体の疲労は既に度を超えており、言葉が完成するよりも早く、足はもつれ、体は地面へと打ち付けられた。
酸素が足りない。
そもそも運動能力が高い肉体ではない。
基礎的な強化魔法で補強したところで、そんなものは焼け石に水。
慣れない全力疾走、魔法の連発による魔力の枯渇。それら一切の目に見えない摩滅が今、真綿の様にこの命を締め上げていた。
「痛ましいな」
悠然と歩み寄ってくる、黒い影。
多くの大規模魔法による掃射攻撃。嵐の如き雷の只中にあって、その鎧には傷一つ負っていない。力の差は、余りにも大きかった。
「そう思うなら、全く、少しは加減しても、バチは、当たらんぞ——!」
眼前の存在は、記憶の中のマールスよりも、遥かに強大だった。恐らくは創造主——センバホシミの感情の振れ幅によるものだろう。
善性と悪性。
対をなす二つの感情は、等量ではない。
持って生まれた特性や置かれた環境によって、人の心はいとも容易くその均衡を失う。センバホシミの感情は今、暗夜の只中に埋もれているのだろう。
「——全く——同じ人間の……センバホシミの心を宿しながら、こうも違うとは——人間というのは本当に、難儀、だの——」
「そうだな。故にこそ、貴公の敗北は単なる既定路線だった訳だ」
杖を握り直し、立ち上がる。
だが最早、この脆弱な肉体は自身を支えることすらままならなくなっていた。詠唱どころか、普通の会話すら困難。そんなこちらを一瞥して、マールス・ブロワは息を吐いた。
「人間の善性は条件付きの代物だ——それは貴公とてよく理解しているだろう。紛い物とは言え、貴公は彼のラキエス・シーシスなのだから」
「——ぬはは。何を言い出すかと思えば、小僧っ子が知った様な口を叩くの。そんな話を持ち出すならば、主こそ同じくではないか、贋作」
「その通り、私は贋作——貴公と同じ紛い物だ。だが、宿った感情は核心でもある」
森がざわめく。
『常闇』の名に相応しい、深く昏い闇。
鬱蒼と生い茂る木々は空からの陽光を遮断し、周囲はまるで夜半の様に静まり返っていた。
「恵まれているから。余暇があるから。他を圧するだけの才覚を持ち得るから。それら限られた資質の中でのみ、善意は他者へと向けられる。誰かを救うという行いには先ず、自らが救われていなければならない」
「詭弁だの。何を待たずとも、資質の有無を問わず、人は他者を思い遣る事が出来る生き物ではないか。でなければそも、人の善悪などという言葉、この世界に有りはしないだろう」
「そうだな。『故に』、脆弱だ」
赤い槍が突き付けられる。
間合いは幾分開いているが、騎士の膂力の前にはあってない様な距離。その気になれば一息で間合いは潰され、その鋒は容赦なく、この偽りの命を打ち砕くだろう。
「資質なき者の救いに意味は無い。成し遂げられぬ善行に価値は無い。いたずらに希望を見せるだけ見せて、何一つ掬い上げられない善性は、最早悪逆と変わらない。それとも……救いを求める民草に、叶いもしない理想を見せびらかすのが貴公の善意か?」
封印魔術の発動には、六文節の詠唱を要する。
その暇を稼ぐ手段など、どこにもない。
「貴公は死ぬ。捨てられた王子の贋作も、異界の少年少女も。例外は無く、結末は変わらない。それがわかっていながら、貴公はまやかしの希望を皆にひけらかしただけ。これを悪と呼ばずなんとする」
言葉は、正しかった。
紆余曲折を経たとて、この結末が大きく変わったのかと問われれば、口を噤む他ない。初めから存在などしていなかった勝ち筋を手繰り寄せる為にもがいていた……この戦いの本質は、ただその一語に尽きた。
『それでも』。
「——きっと、大仰な話ではないんだろうの」
「——何?」
センバホシミを知らない。
心に降り積もる感情の一片は、彼女の人格の全てではない。創作物——虚構の具現であるこの身に、実存たる彼女の心の内、その全てを推し量ることは出来ない。
だが確かに。
一つだけ、確かに。
「我らの様に命のやり取りをしている訳ではないのだろう。背負ったものなどありはしないかもの。こんな契機でもなければ、大っぴらげに口に出されることなどありはしなかった、ささやかな日々の痛みや苦しみ……きっとそうした数多が折り重なって、センバホシミの心を苛んだのだろう」
「到底理解は出来んがな。全く、子供じみた瑣——」
「それを瑣末とは言わせん‼︎‼︎」
空想夢想の荒唐無稽。
我らにとっての現実は、誰かの手によって生み出された虚構。実存しない、仮初の幻想。
けれど。
受け取った者の心に遺ったものがあった。
読み解いた者の心に響いた言葉があった。
それはとても誇らしく。喜ばしく。何にも代え難い感情であると、〝今ここに在る〟私は感じる事が出来た。
ならば、応えたい。
少女の愛した幻想世界は、彼女の住まう現実を塗り潰す澱などではないのだと。誇らしく思われていた我々への解釈が、寸分違わぬものであったと。
及ばずとも。届かずとも。
センバホシミの抱いた夢は、夢のまま。
この先の彼女の生涯を照らす灯りで在り続けると。
「——言いたい事はそれだけか、〝雷霆〟」
鋒が揺れる。
最期に思い浮かんだのは、誰の顔だっただろう。
結局、闇の淵から掬い上げることの出来なかった女王か。
行末を示してやることの出来なかった騎士か。
無理ばかりを強いてきた、名を失った王子か。
はたまた、可愛らしくも無口な異界の少女か。
目を閉じなかったのは、体がそれを許さなかったから。
諦観の心を、辛うじて肉体が拒んだだけの結果。なんの意味も無い、無価値な抗い。
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けれど。その抵抗が無ければ。
彼女がもう一度青空を見る事はなかったかもしれない。
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爆撃の様な轟音と共に、眼前を巨大な何かが通過した。前後に巨大な破壊の痕跡を残して。
木々が薙ぎ倒される。
紗幕となって陽光を遮っていた隔たりは打ち砕かれ、柔らかな陽射しが降り注ぐ。
見上げた先は蒼穹。
どこまでも青く。どこまでも蒼く。
「はっ、正直ちっと馬鹿にしてたけどよー。アンタの言う通り、コイツぁ悪くねー策だ。いやいや、年長者の言葉にゃ従ってみるもんだぜ」
呆気に取られていた、一瞬。
声のした方へと視線を向けた。
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砲弾の様に森を薙ぎ払ったのは、傷付いた雷翼竜。
ラキエスとマールス、その間を遮る様に停止した後、鋭い眼光を騎士へと向ける。
その鼻先へと降り立ったのは、少年。
シニョンに結い上げられた真っ赤な長髪。
両耳には金色のフープピアス。
和竜と太陽が描かれたオレンジ色のアロハシャツに、極太デニムのカーゴパンツ。足元には厳しいコンバットブーツ。
その腕が真っ直ぐ正面へと向けられる。
幻想の兵、マールス・ブロワを指差して。
「どーーーん」
逆理の徒・花蕗静は不遜に笑った。
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「シ、シジマ⁉︎」
ラキエスが素っ頓狂な声を挙げる。
雷翼竜の巨体の隙間から、ちらりとそちらを見やって、静が愉快げに笑った。
「百年ぶりだな魔法使い。息災な様でなによりだぜ」
「アホな事を抜かすな!なんでこんな——アホだろ、主!」
「語彙力死んでてウケる」
「引っ叩くぞ小僧!」
静が大きく口を開けて笑う。
その目には狂気も、病理も——一片も見受けられなかった。
「本当に——一体何しにノコノコ戻ってきた!状況わかっとらんのか、この——アレだ、アホ‼︎」
「ウケる」
「ぶっ飛ばすぞ!」
「まぁま、そうカッカすんなよ——何しに来たってアンタ、そんなもん決まってんじゃねーか」
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魂が宿らねー、とは随分な言われ様だ。
けどまぁ実際そうかもな。
俺は俺にやれそうな事にしか首ぃ突っ込まねーし。その結果誰かしらが美味い汁啜ったところで、俺自身にゃ碌々関係ありゃしねー……そう思ってずっとやってきたんだからよ。
けど、望んだ。
テメーで決めて、選んだ。
望みはない上、望まれてもねーくせに。
だったら、びびるな。
名付ける事を躊躇うな。
有難ぇ事に、最高の手本はもう示して貰ったのだから。
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「——助けに来たぜ、ラキエス」




