『善悪の在処』
息も絶え絶え。
森の上空を抜けた先。黄金の極彩に彩られた空の下。
荘厳な城の城門前にふらふらと降り立った雷翼竜の翼からは、止めど無く赤黒い血が吹きこぼれ続けていた。
痛々しいその姿にしかし、顔を顰め……それでも今はそのままの表情を、『名無し』へと向ける。
「——黙ってやがったな」
静の無事に安堵する暇も。ラキエスの喪失を憂う隙もない。『名無し』へと向けられたその表情を見て、抄帷は口を噤むことしか出来なかった。
「ラキエスの〝封印〟、ノーリスクじゃねーんだろ。かなり重目のペナルティがあって——だからテメーは乗り気じゃなかったんだな」
———「ええと……『名無し』と一緒にマールスに挑んだパーティの中に、邪なる物を一時的に封じる魔術を使えるエルフが居て……『名無し』達との攻防で生まれた隙を突く形で封印、その間にデケム女王との直接対決に挑む、って流れなんだけど……」
「——つまり作中、マールスは明確に敗北はしていない?」
「うん。『名無し』達が総がかりで挑んでも、マールスには及ばなかった。女王打倒を果たす為、苦肉の策に頼らざるを得なかったの」———
一拍遅れ。星翠との会話を回想して、ようやく抄帷も思い至る。話の流れ上聞き流していた……今こそ重大な一言。
苦肉の策。仙波星翠は、確かにそう言った。
「何が苦ぇか測りかねてたが、ようやっと得心いったぜ。黒騎士封殺のジョーカー、ラキエスの〝魔法〟……成功率や難易度以前に、そいつをかませば泥被るのは当人だったって訳だ。はっ、付き合い長いんだろーアンタの事だ、そらあんな苦しい面する他ねぇーよなぁ。だろ?『名無し』」
「——認めよう。事実だ」
「じゃあなんでそれを黙ってた‼︎‼︎」
周囲の空気を震わせるほどの怒号。放たれたその圧に、少女は思わず半歩後退った。
傲慢不遜にして凶暴凶悪。
挑み掛かる不適な笑みを常とする花蕗静の、本気の激昂。
かつて、合掌抄帷が一度も見たことのない姿であった。
「——ラキエスの意思だ」
「ぁあ⁉︎」
「君達への助力を申し出た時点でこの展開は予測出来ていた。いずれかの頃合いでラキエスがマールスを、私が〝天使〟を相手取る。状況次第な側面があったのは事実だが……現状は未だ想定通りとも言える」
止める暇など、あるはずが無かった。
静が『名無し』の胸倉を掴み上げる。
その目には煌々と、煮えたぎる様な怒りが滲んでいた。
「言葉ぁ選べよ、勇者様。テメーも、あの魔法使いも。頼んでもねー流れで勝手に命張ってくれてんじゃねーよ。終いにゃそれが想定通りだ?ガキ扱いで舐め腐ってんのも大概にしろよファンタジー」
抄帷は止めない。否——止められない。
余計な一言を発すれば、諸共射殺す。それほどに狂気的な殺気が、今の静からは立ち昇っていた。
「——こうなることを、予見していたからだ」
だが。『名無し』は決して退くことはなかった。
無骨なその手が、そっと。
自らの胸倉を掴み上げる静の手へと重ねられる。
「君はきっと、決して認めはしないだろうが——君は度を超えて優しすぎる。なればこそ、守るべきものを見失うのではないかと、最初の出会いの時点からラキエスは危惧していた。だからこの事実は伏せるようにと、私達自身で決めた」
「はっ、それを舐めやがってってんだよ!見失うも糞も、んなモン——」
「——センバホシミ、だろう。君が守り、救い、取り戻すべきは。——紛い物の私達では、ない」
静が目を見開いて、息を呑む。
その隣で抄帷は沈痛な面持ちで目を伏せた。
「信じている正義がある。自ら尊ぶべき誇りも、あるいは魂すら自覚している。だが、事実は自認とは別にある。私達は幻想であり、虚構。ただ一つ、たった一つしか存在しないセンバホシミの命とは比べるべくもない。それらを全て承知で私も、ラキエスも。君達と共に戦う事を選んだ」
静の拳が解かれる。
力無く降ろされたその掌を、それでも未だ力強く握りながら『名無し』は言葉を続ける。
「ラキエスの為に痛めてくれたその心は、本当に嬉しい。だが、見誤るな。何のために自分達が此処にいるのかを、どうか見失うな、シジマ」
手が、解かれる。
繋がれていたその手を見やり……さりとて納得が伴う訳でも無く。
「——馬鹿クセェ論理だぜ。わざわざ見知らぬガキの為にそこまでする意味がわかんねーよ。度を超えてんのはどっちだ」
血を吐くように搾り出されたその言葉を——『名無し』は首を振って否定した。
「いいや。私達は君を——君達を知っていた」
「——は?」
「——え?」
静と——今度は隣に立つ抄帷も。言葉の意味が分からず、顔を上げた。
そんな二人を正面から見据えて、『名無し』は苦しそうに言葉を続けた。
「本来は一番初めに言うべき話だった。それを、こんな僻地に至るまで言い出せなかった非礼を詫びなければならない」
「——なんの、話だ?」
「そもそもが虚構であるこの身に相応しい言葉でないのは承知で言おう。——私は、本物の『名無し』ではない」
「——————は?」
「これはラキエスにも……マールスや女王デケムにも言えることだがな。私達は誰一人として、本当の意味で『本物』と言える存在ではない」
「——いや、全然意味わかんねー。わかるように説明しろよ」
先程までの焦燥も棚上げに、静が吠える。
『名無し』はこれに頷き、自らの胸元を自身の手で指し示した。
「私達を構成するのは、センバホシミの感情の一片。それらが、彼女自身の記憶と解釈によって選ばれた、最も相応しい器に注がれる事で顕現した存在だ」
「——記憶と、解釈」
抄帷の呟きに、『名無し』は再び頷いた。
「彼女自身が読み解き、解釈し、『こうであって欲しい』と願った『名無し』……そこに、それに相応しい彼女の感情——善性と呼んでも差し支えないだろう欠片が注がれた結果が、今のこの私だ」
故に、〝紛い物〟。
物語の世界、幻想の住人。その実態は全て『仙波星翠の内包する物語の作中人物』。見た目だけを取り繕った贋作——正真正銘の創作物。
存在証明以前の問題として、彼らは虚構ですらなかった。
ただ一人の少女の空想の産物……それこそ、彼らの正体。
話を聞きながら、抄帷はようやく、今日に至るまで引っ掛かり続けていた小さな違和感の正体に思い至った。
——彼らの言語が何故、日本語だったのか。
現出したファンタジーの出典を正確になぞったとすれば、本来あり得ない話。にも関わらず、交わされる全ての言語——幻想の象徴たる魔法の詠唱すら、全て日本語だった理由。
『仙波星翠が日本人で、彼女の読んだ物語が翻訳されたものだったから』。
加えて言えば、花蕗静の使う現代語に対しても、彼らは一切違和感を示すことがなかった。その理由もまた、明白。
彼らには伝わっていた。理解出来ていたのだ。
仙波星翠の記憶の一片として共有された知識から、言語の意味を正しく把握していたからこそ、会話は常につつがなく行われてきたのだ。
そして。『名無し』の言葉が示す真実は、もう一つ。
「だから、私達は知っている——センバホシミによって窮地に立たされた君達が、そうとは知らず——センバホシミを救う為に戦ってきたことを。出会う前から、私達は知っていた」
黒鉄の騎士マールス・ブロワ。
女王デケム。
あれらもまた、確かに。仙波星翠の心の一片。
『名無し』達と対をなす、少女の悪性。




