『君臨者』
貫かれた部分を起点に、刺し貫かれた手足が爆ぜたと思った。
未だかつて味わった事のない、想像を絶する鋭利な痛み。人の腕程の身幅の鋒が手の甲から侵入し、掌から抜け、そのまま地面に突き立つ。うつ伏せの体勢のまま手足を地に縫い付けられ、静は最早一歩の身動きすら取れずにいた。
あらゆる思考を塗り潰す、痛覚の逆鱗。襲いかかる恐怖と痛みに絶叫する事がなかったのに、大それた理由などは無く。強いて言えば単に、そんな余裕すら無かったというだけ。
「——————っ」
遂に剥ぎ取られた二枚舌の仮面。
黒騎士を打破する為、頑ななまでに保持されていた傲慢不遜のペルソナが瓦解する。苦悶に歪む表情。その眼前に、彼女は姿を現した。
——————
空に浮かぶ月を掬い上げた様な、淡くも深い銀色の長髪。
絹糸を想起させる、白く美しい肌。
夜明けの汀を思わせる淡藤色の瞳。
純白のドレスに身を纏った、荘厳な姿。
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「こんばんは、異界の少年——尤も、貴方から見れば私達こそ異界からの徒なのよね。おかしな話」
紅く煌めく唇に指を添え、女性が言葉通り、小さく微笑む。ただそれだけの所作に宿る、気品と知性。現実離れした、人間離れした美しさ。
——目の前の存在が何者なのか。
追い詰められたこの状況で思い至らぬ訳もなく。誰に教わるでもなく、静はその正体に辿り着いた。
「——おっかないタイミングで来てくれるじゃねーかよ。女性が一人散歩するにゃ不向きな時間じゃねーのかよ、女王様」
「ふふっ、お気遣いをありがとう。優しいのね、貴方」
花が咲く。
綻んだ笑みが、場にそぐわず……余りにも華やかに咲き誇る。その異質さに疑念を挟むよりも先に、女性が軽く右腕を上へと振り上げる。
刹那。花蕗静の悲鳴が、夜にこだました。
物理法則を無視し、独りでに浮き上がる光の柱。
引き摺り揚げられる形で、静の両腕は当人の頭上に。吊り下げられる様に浮き上がったその顔に、細く白い指が伸びる。
「——あぁ、やはり。なんと美しい貌だ事。まるで絵画か彫像……神話の天使みたいだわ。貴方もそう思うでしょう?マールス」
出血こそしていないものの、貫かれた手足には厳然と、恐るべき激痛が走り続けている。女性の言葉に応答する余裕など微塵も無い。
「お戯れを、女王陛下」
だが。黒鉄の騎士マールス・ブロワの言葉に、予測は確かな真実であるという確信だけは得ていた。
幻想世界の最頂点。
超然の支配者にして、絶対的な君臨者。
デケム女王。古き幻想の大国テサウルを統べる、真正の王。紛う事無き、異界の絶対者。
——額を大粒の汗が伝う。
貫かれた箇所は今や白熱し、次の瞬間には着火するのではないかと思う程の異様な熱を帯びている。そんな激痛と、伴って明滅する意識の渦の中、目まぐるしく逡巡だけが飛び交い続ける。
——騎士野郎の言動からして、恐らく女王の乱入はアイツにとってもイレギュラーだったんだ。糞が、大ボスが出張ってくるってとこまでは予想してなかったぜ——
誉れの騎士団最強の男。
その救援にまさか、一国の長自身が現れるというのは、静にとって予想外であった。加えて、助太刀の初手がそもそも人理を超越した攻撃であったことも、また同じく。
そして何より。事この場に至り、最大の想定外は、
——『パラドクス』が全く反応しなかった。一体どういう理屈だ、糞——
『パラドクス』能力者は、その能力の全容を発現と共に理解する。
迎撃不可能を迎撃する。絶対堅守、本体の知覚を要せず発動される無力化の盾は今、光の柱に対して全くの無抵抗だった。
攻撃が完了している今、その要因を追求する事に意義は無い。それでも、全ての動作を封殺されたこの場において、静は思考を遮断する事ができなかった。
「美しい人。天使の柱を魅るのは初めてかしら?」
そんな思考の只中に、女王の柔らかな声が差し込まれる。
「万物を穿ち、封じ、抑え込む。どんな盾も、強固な城壁も貫く聖なる柱……お話に聞いていた貴方のその奇妙な両腕、それも例外ではなかったようね」
勝ち誇っている訳でも、自らの力を誇示している訳でもない。そんな俗じみた感情は、一片たりとも言葉には混ざらない。
それはただの確認。実行し、それ故招かれた結果を観察しただけの、どこまでも事務的な代物だった。
——あぁ、なるほどな。そういう事かい、クソッタレ——
女王の言葉に、静は得心がいった。それは、自らに宿る逆説の異能が抱える、もう一つの致命的な欠陥。これまで出会う事がなかった故に考えもしなかった、超能の限界。
絶対堅守の自動迎撃。
あらゆる物理攻撃を無力化する逆説はただし、『花蕗静が物理干渉可能』と認知している対象のみを捕捉する。
実存すらわからない、生涯において初めて目の当たりにする異質な光。花蕗静にとってそれは、『迎撃可能な物理干渉』の枠組みには含まれていなかったのだ。
「ねぇ。貴方、何者?マールスと正面から剣を交える事の出来る者など、もう久しく魅ていなかったのだけれど」
苦痛に苛まれ、苦しげに歪んだその瞳が女王へと向けられる。
日暮とも夜明けとも見える、底の見えない妖艶な瞳。
有機的な感情の一切を排した、ただ美しいだけの虹彩。
反射する自らの姿すら視認出来る至近距離に顕となった、余りにも美しく、神々しいその姿に——花蕗静は遂に、己の敗北を認めた。
惨殺か、蹂躙か。結末はわからないし、それらを選び取る権利は己にはない。確かな事は一つ。花蕗静は破れ去り、生殺与奪はおろか、その他一切の人権はここに剥奪された。
「あぁ、そんなに怯えないで。美しい貌が台無しよ。何も私は、貴方に酷い事をしようだなんて思っている訳じゃないのよ」
「——お目こぼし、頂けるってかよ——」
「えぇ、勿論」
細い指が、まるで愛おしむ様に静の頬を撫ぜる。
傷付ける意図の欠片も感じさせない、柔く、甘く、たおやかな所作。
更に半歩、女王の顔が静に近付く。
どちらかが顔を突き出せば唇すら触れ合いそうな、危うい距離感。吸い込まれる様な妖艶を湛えたその瞳に気圧される静へと向けて、女王は更に言葉を紡ぐ。
「美しいモノは好き。なんであれ、美にはただそれだけで価値がある。シジマ、と言ったかしら。貴方は本当に、どうしようもなく美しい——私は貴方が、欲しいわ」
絡みつく様な、包み込む様な。
甘美さと抱擁を兼ね備えた、弦楽の調の如き美しい声。
聴くものを捕らえて離さぬ甘い声。
見るものを魅了して止まぬ、妖艶な美貌。
それらが絶命の窮地、絶望の瀬戸際に追い込まれた無力な少年の肢体を包む。
——言葉に嘘はないだろう。
戦力差は天地程も乖離している。この場において、女王側が何かしらの交渉を行う意味は無い。
そもそも状況は既に決している。
取り返しのつかないこの場面で、女王や騎士の神経を逆撫でする合理性などどこにも無い。
「ねぇ、決して貴方を悪い様にはしないわ。だから——おいで、シジマ」
平伏。
戦略的な価値や、心理的な窮地。そんな常理を超えて、女王の言葉には抗い難い甘美さがあった。
痛みと絶望。
恐怖と焦燥。
そこに垂らされた、艶めかしい甘美な救いに、心が揺れる。
「——あぁ、そうだな」
そんな全て。
自らの迷いや惑い、それら一切を含めたありとあらゆる総てに向けて。
「——お断りだ、人外」
逆理の徒、花蕗静が牙を剥く。




