『現界』
油断とも、慢心とも呼べない……それはほんの微かで、余りにも細やかな綻び。その間隙を正確に捉えた一撃でさえしかし、重厚な黒鉄の鎧に土を付けるには至らない。
揺れた重心は崩れるに至らず。
振り下ろされ、地面を穿った盾を自らの楔として、彼の五体をその場に押し留める。
「芸達者だな」
矢継ぎ早に繰り出される技の数々。
恐らく、そもそも流派が異なるのだろう——一貫性の欠如したそれらは、個々の練度の稚拙を補って余りある多彩さであった。
「それが売りだもんでな——っ!」
言うが早いか、伏していた身体を素早く起こし、踏み込み二歩で騎士との間合いを詰める。
技術と腕力。それらとは別にもう一つ、剛腕マールス・ブロワを打倒する上でどうしても避けられぬ問題……双方のウエイト差。
幻想由来の仰々しいまでの全身鎧。有する質量は現実のそれに相違なく、であればこそ、正面からの打倒は極めて困難。
隙を作り、隙を突く。
小さな歪みの連鎖がやがて大きな崩落に繋がるように。
幻想からしてみれば取るにも足らない一撃を積み上げ、積み重ねる。堅守の異能を持ちながら、人間を超越した火力の一切を持ち得ない花蕗静の、唯一の選択肢。
故に、花蕗静は止まらない。
多少の不利、体勢的な不備などは棚上げに、それでも脚を前へと運ぶ。その果て以外に、幻想を踏み越える術など有りはしないのだから。
踏み込み、踏み切る。
軸足は右、狙うは構えが未だ整っていない槍の持ち手側。
体格差的に狙えない頭部は除外。
打撃によるダメージなどは最初から狙わない。
イメージは当てるのでは無く、押し込む。
左胸部、鼠蹊部、膝蓋骨。
押し蹴り気味のベクトルで放たれる、右側面部への三連撃。不完全な重心位置を更に狂わせる、ダメ押しの一連。
周辺の筋肉を鍛える事は出来ても、関節そのものを強化する事は不可能。幻想の住人とは言え、騎士もまた人間の肉体構造に則っているのは明らか。ならば——効く。
万人共通の人体急所。例外でないならば、この一撃は騎士を打倒し得る。
「——————」
背筋を、冷たいものが伝う。
首元に死神の鎌を掛けられた様な、不気味な焦燥。
その正体を知るまでに、そう時間は掛からなかった。
マールスが槍を構える。ただし、これまでの刺突を目的としたコンパクトなそれではなく、大きく腕を広げた不自然な構え。その狙いは、即座に理解できた。
真横に薙ぎ払われる、赤い恒星。
灼熱を思わせる光の残像は周囲の塀、電柱諸共を一掃する。
『パラドクス』による迎撃は当然、何の問題もなく実行される。だが、唐突な範囲攻撃による余波は、花蕗静がその場に留まる事を許さなかった。
大きく弾かれる形で、静の体が大きく後方へと弾かれる。
槍の間合いの丁度倍ほど。
文字通り、命を賭して肉薄した間合いは、呆気なく帳消しとなった。
——だからどーって話でもありゃしねーけどな——!
花蕗静はマールス・ブロワに勝てない。
そんなもの、始める前から分かりきっていた話。
幾つかの小賢しい悪知恵がなければ、そもそも土台戦闘にすらなってはいなかっただろう。
ならば。彼我の戦力差に絶望する事に、何一つ意味は無い。そんな下らない弱音に思考を回すならば、一つでも多く次の一手を考える。
「——わからんな」
その思考の只中に、騎士の声が響く。
「昨晩、そして今。披露された技の全ては、見事だ。練度が低いとは言ったが、それを補うには十分過ぎる多彩さだ。敬意を表する」
「さっきも言ったろ。そいつが売りなもんでね」
「——だが、それでもやはり。貴公は、私には遠く及ばない」
「はっ。それこそなーにを今更な事抜かしてんだよ。こっちはンなもん、端から百も承知で喧嘩買ってんだよ。この期に及んで御託捏ね回してりゃ世話ないぜ」
「そう言うな……これから貴公を討ち滅ぼす男の言葉だ。多少なり、聞いておいても損はないと思うが?」
構えは解かない。
内部的に発動状態を維持する『パラドクス』も継続中。
それでも。意趣返しの様なその言葉に、静はほんの僅かだけ、思考を会話へと寄せた。
「何だい、急にお喋りが恋しくなったってのかよ構ってちゃん。悪ぃけど、碌々有益な話なんざもっちゃねーぜ」
「いいや、もっと根源的な話だ……貴公は何故、あの少女の為にそこまでする?」
「——ぁあ?」
「友人、恋仲、家族……貴公が我が身を呈して私に挑むだけの理由。貴公にとってあの少女は、それだけの価値があるものなのか?」
「退屈極まる二元論だな。期待に添えなくて悪ぃが、俺は別にアイツを護ってやろー、みたいな高尚な動機で動いちゃねーよ」
「では、何故だ。何が貴公を駆り立てる。死地に赴き、尚生を渇望しながら、それでも目的の為に命を賭す……貴公の内の如何なる感情が、貴公にそこまでを望む」
——————
それは、源泉。
逆理を握り、自らに挑み掛かってくる、無力な少年。
震える様な恐怖も、怯えも。その全てを明らかに感じながら。
そんな全てを踏み躙り、嘲嗤い、立ち塞がる。
その姿を支える背骨が一体何なのか。
「はっ」
けれど。向けられたその言葉こそは愚問だとばかりに、逆理は一掃牙を向いて凶悪に嗤う。
「訳もわからずぶっ殺されそうになってる隣人を、どーこー出来るかもしれねー種火が手の内にあった。だから出張った。理由なんざ精々がそんなもんだよ」
「——貴公にとってあの少女は隣人、か。隣人の為に命を張れる人間など、私はやはり知らないな」
「だーから、そこが的外れだって言ってんだよ堅物」
その答えに、道理など無い。
整合性は皆無であったし、合理性とは程遠い。
それでも尚、何の迷いも躊躇いもなく。矛盾した夢想を現実として語るその逆理の眼には、狩人を食い破る獣の如き光が迸っていた。
「俺は死なねーし、アイツはやらせねー。テメーらが何を狙ってアイツのケツ追っかけてんのかは知らねーが、どれ一つも、テメーらの思い通りにはさせねーよ」
「——なるほど」
わかっていた事だ。
昨晩という不測の先、少女を守る為に再び立ち塞がった少年が、今更我が身可愛さに身を翻す訳がない。問いはただ本当に、僅かばかりの興味から漏れ出たものだった。
だが、結果として。黒鉄の騎士マールスは、初めに思い描いていたのとは異なる確信を得ていた。
——この少年の言葉に、嘘はない。
あの少女を救う為に身を投げだしながらしかし、その核心は自己犠牲や奉仕とはまるでかけ離れた所にある。
「全く、面白い男だな、貴公は」
その命などよりも遥かに重い、自己の存在証明を貫く為に剣を握る。それは確かに、古き王国で槍を交えた数多の兵共と同じ、誇りと信念の姿だった。
無論。その誇り高き孤高が、ただの市井に宿る訳がない。
「そいつぁどーも。なんだい、ちっとは気に入ってくれたかよ」
——なにか。己の命と等価値の何かを失い、立ち上がった者だけが持ち得る孤独の異彩。目の前の少年は確かに、燦然と輝く朽ちた宝石。——己と同じ光を持つ、異端。
「どうかな。それは今から確かめるところだ」
「——上等」
ならば。その決着が生半な物である由はない。
行き着く先の果ての果て。どちらかの息の根が止まらぬ限り、闘いが終わる事はない。
「今一度、だ。いくぞ、シジマ」
「はっ!遊んでやるよ、ナイトメア‼︎」
今再び、双方は構えをとる。
——だが。両者が激突する瞬間は、遂に訪れなかった。
——「情熱的で素敵ね。でもその前に貴方。もう少し良く、その美しい貌を魅せて頂戴」——
刹那。
天より降り注いだ、眩く輝く四本の光の柱。
それらは寸分の狂いも無く、花蕗静の両手足を貫いた。




