『帳』
暗く。
陽の落ちた空は、焼け焦げた黒。
住宅街に人の気配は無く。灯る家々から漏れる光と、伴って微かに聞こえる団欒の声だけが、浅い夜の汀に揺蕩っていた。
そんな穏やかな静けさにはまるで不釣り合いな、硬質な足音が響き渡る。
全身を覆う黒鉄の鎧。
はためく外套は漆黒。
両の手には、巨大な赤槍と大盾。
幻想より出で、現実を侵略する、巨躯の超然。
悠然。
或いはいっそ神々しさすら感じられる荘厳な風体。その姿は正しく異形。常世に在ってあり得ない、常理の外縁に立つ、破禄の騎士。
駆ける事も逸る事もなく。一歩一歩を踏み締める様に、ゆったりとした所作で前へと進む。無論、その歩みを阻む者などある訳もない。
「百年ぶりじゃねーかよ、ファンタジー」
ただ一人。
何者でもない、たった一人の少年を除いて。
——————
時刻は二十一時を回った頃。
夜の闇の中、姿を現した異形を前に、花蕗静が嗤う。
「昨晩はどーも、ってやつだ……って言いてーとこだけどよ、あんだけ盛り上がった所いきなり雲隠れってのは、些かつれねーんじゃねーかよ」
騎士が歩みを止める。
顔を覆う黒鉄の兜。そのスリットから覗く鋭い眼光が、赤髪の少年を見据える。
「——これは驚いたな。昨晩を経て尚、私の前に立つとは……互いの力量を推し量れぬほど浅薄ではないと思ったが、見込みが違ったか」
「はっ。こっちは驚きも糞もねーな。予想通りに現れてくれやがって。俺らの国じゃ、意外性のねーエンタメは流行らねーんだよ」
凶悪な笑みを浮かべながらしかし、口に出した言葉などとは全く別の事を、花蕗静は考えていた。
——————
クリアしなければならない条件は五つ。
一つは、再度襲撃してくるのが、昨晩と同じ黒鉄の騎士である事。
当該パラドクス能力者が、参照元である『テサウル国物語』の作中人物を制限無く、自由に現界させる事が出来る——もしくは出来たと仮定して、仙波星翠に向けられる刺客が彼で無い可能性は多分に存在した。
言葉を解さぬ小鬼。
存在するとされる、『誉れの騎士団』の別団長。
そのどれが現れたとしても、静の策は瓦解する。
とは言え。
必要とされる条件の中では、これが最も容易いと予想していたのも事実。
絶対的な忠誠と、圧倒的な力。
なればこそ、主従の信頼が一方通行であるとは考えにくい。
選択肢の有無は棚上げに……少なくとも一度目の襲撃で軍神マールス・ブロワが送り込まれたという事は、彼らにとっての仙波星翠の価値は想像以上に重い筈。
ならば。再び彼の騎士が派遣される事は、半ば必然。重要度の高い命に、彼らの想定の外側に立つイレギュラーまで現れたとなれば、最強こそが選ばれて然るべきなのだから。
「性懲りも無く女子高生の首根っこ狙ってノコノコ来るとは、なんとも締まりのねー話だな。とんだ変質者もいたもんだぜ、全く」
「——生憎、あの少女に対して個人的な感情は持ち合わせていない。尤も、変質者呼ばわりは些か遺憾だがな」
二つ目は、現れる黒鉄の騎士が〝昨晩と同一個体〟である事。
剛腕無双、百戦錬磨の怪物が、彼我の実力差を正確に理解出来ない訳がない。目的遂行のみを優先するならば、こんな茶番じみた会話に彼が付き合う道理はない。初手で蹂躙されるのが関の山。
だが実際には、彼はその歩みを止め、花蕗静の言葉に耳を傾けている。それは、何故か。
「両腕の不可思議な力は未だ健在か」
「企業秘密に決まってんだろ、間抜け。とはいえ、興味津々なご様子で光栄にゃ間違いねーけどな」
『パラドクス』。
失われた呪術。
非実存の魔術。
それらが等列に存在する幻想の世界にあってしかし、唯一存在しないであろう『逆説の異能』。絶対的な力を有して尚、正面から打破しきれなかった——マールスにとっては極めて稀有な、異彩。
望んだのか望まれたのかは定かではない。だが、日常的に闘争を居場所としていたであろう彼が、その力に興味を示す事——これもまた、予想の範疇。
——消え失せて、現れての流れで、ガワだけ揃えて中身がリセット掛かっちまってたら、即死もあり得たからな。こっちは杞憂で一安心ってトコだな——
「急ぎじゃねーなら一つ聞かせろよ、ナイト。アンタは誰の命令で動いてんだ?」
「急いでいる訳ではないが、悠長に構えているのは性分ではない。加えて、貴公の問いに答える義理もない」
「ご尤もだな。ただまぁ、そう言うなよ。これからテメーがぶち殺そうとしてるガキの戯言の一つ二つ、お付き合い頂いてもバチは当たんねーと思うぜ?」
言いつつ、静がその笑みを深める。
「質問を変えるぜ。今更過ぎる話だがよ、アンタ方はなんであの女を狙ってんだ?特別ななんかなんざ持っちゃいねー、どこにでもいるただの小娘のなにが、アンタ方の琴線に触れたってんだよ」
「同じくだな。答える義理はない」
「ほんっとに堅物だなアンタ。んじゃ、これはどーだい……アンタ方の生みの親は誰で、今どこにいやがる」
ピクリと。騎士の体が僅かに揺れる。その一瞬を、静は決して見逃さなかった。
三つ目にして、これまでの仮定……その真偽を決定付ける為の条件。
騎士が、パラドクス能力者本体を認知している事。
とは言えコレも難関とは言い難く。
これだけはっきりした知略を有する存在が、自らの現出と、見慣れぬ筈の世界を前に、その引き金となったであろう何者かの正体を追及しないなどあり得ない。
故に、ここまでは既定路線。
これらが前提条件。
問題は、この先。
「くどい。言いたい事はそれだけか」
言葉と共に、握られた槍が微かに揺れる。
闇に浮かぶ恒星の如き、灼熱の赤。その鋒などには一瞬も目もくれず、静は真っ直ぐに騎士の眼を睨み付ける。
「都合の悪い話は全部だんまりとは、えらく器の小せぇナイトも居たもんだな」
「市井と自ら名乗った貴公が騎士の在り方を語るか。それこそ道理が——」
「——マールス」
騎士の言葉尻を塗り潰す、食い気味の言葉。
示されたその名に、騎士の動作が止まった。
「誉れの騎士団、つったか?冠に恥じねー代物であって欲しいと思うもんだろ、民草ってのはよ」
「——侮辱の次は挑発か。全く、良く回る舌だな」
「お褒めの言葉痛みいるぜ。挑発ついでに、そうだな。一つ俺と話をしようぜ、百戦錬磨」
「——挑発の続きなら聞く耳を持つ気はないぞ」
「いいや、もっと面白味のあるエンタメだ——どうだい、俺と賭けをしようぜ、剛腕無双」
「——賭け、だと?」
四つ目の条件。
それは、この条件を目の前の傑物に受諾させる事。
「もう一度相手してやるよ、アンティーク。俺が条件を満たしたら、テメーを生み出した超能力者の情報を寄越せ」
驚愕とまでは言えない……それでも微かに言葉に詰まるその様子から、自らが突き付けた提案が騎士にとって全くの予想外であった事を静は確信した。
「それは何かの冗談か?」
「バッキバキの大マジだ。ふざけてる様に映ったかよ」
「そうだな」
遠雷を思わせる、低く厳かな声色が更に一段、一際重さを増す。
「これもまた、これまでと同じくだ。貴公の願いを聞き入れる道理はなく、そのつもりもない。そもそも、白痴でもないだろうに、私がそんな賭けに乗るなどと、よもや本気で思った訳ではないだろう」
「いいや、乗るさ」
「——なに?」
「わかってねーな。こちとら決闘の申し出してんだよ、団長様」
空気がひりつく。
両者の間に流れる空気そのものが薄氷のように、音を立て、ひび割れるかの如き緊張。
「——それも、なにかの冗談か?」
「だからマジだってんだよ、ボンクラ」
半身を正面へ。
重心の掛かる左側の腕を真っ直ぐに突き出し、静が騎士を指差す。
「周りの連中皆殺し、なんて胸糞な命令受けてる訳じゃねーんだろ?じゃなきゃ、昨日の初手で俺らはとっくにくたばってる——アンタにとっちゃ、俺が生きてようが死んでようがどっちだって構わねーって訳だ。てめぇの邪魔にさえならねーんならよ」
花蕗静個人の重要度などは所詮その程度。言葉は正しく、騎士にとって見知らぬ少年の生き死になどはさしたる問題ではなかった。
昨晩の、あの戦闘までは。
「逆に言や、俺が立ちはだかるってんならアンタは容赦無く、そのカッケー槍を俺に打ち込むって訳だ」
「当然だな」
「けどな、こっちにしたって、害虫駆除みてーなライトな気分で事にあたられちゃたまったもんじゃねぇ」
「——故に、決闘か」
「あぁ。嫌いじゃねーだろ?現役ナイト」
「くだらない話だな。騎士でもない、戦士でもない。言葉を借りるなら、ただの一市井に過ぎない貴公からの決闘を、私が受けると思うのか?」
騎士にとっての尊厳。
ただの民草……それも子供からの決闘の申し出を受け入れるなど本来、自らの名を貶める恥でしかない。黒鉄・マールスが申し出を受け入れる理由などどこにもない。
「寝ぼけてんな、時差ボケかよ」
——そう。本来ならば。
「お忘れ召された訳でもねーだろ、モンスター。アンタは俺に勝てなかったんだぜ?」
外套がはためく。
風の無い夜の底で、逆理が嘲嗤う。
「市井からの決闘なんざ、受けるだけ時間の無駄。そらそーだろうよ、確かにな。けどこの場を取り零せば、アンタは生涯腹の底にモヤを抱えたまんま騎士を続ける羽目になるぜ。どうだかコイツは、精神衛生上好ましく無いんじゃねーのかよ」
「詭弁だな。格付けは既に済んでいる……これは貴公自身も認めている事だろう」
「心持ちはな。けど、結果が変わる訳じゃねー。アンタが仕留め損なって、矜持と経歴に唾吐きかけたのが、取るにも足らないそこらの馬の骨ってのは揺るがねぇ。それに納得が伴わねーってんなら……受けるだろ、アンタなら」
厳格な騎士。
彼らにとって尊厳と誇りは何よりも尊ばれる。
何より相手は真性の百戦錬磨。
傷付けられた矜持を捨て置く道理などありはしない。
「愚考だな。仮に私がその申し出を受け入れたとして、貴公は本気で私を打倒できると思っているのか?」
「あぁ、勿論夢にも思ってねーよ」
「——何?」
決闘に持ち込まなければならない理由は二つ。
一つは乱入者を交えた混戦を避ける為。
抄帷達を襲った小鬼は無論、現状現界の確認が取れていない他の騎士団長を加えた多対一の状況に追い込まれれば、これは本当に打つ手がない。
厳格な騎士が、その人格が。受け入れた一対一を反故にはしないだろう。
避け得ない私刑を戦闘に置き換えるためには、どうしても〝決闘〟を成立させる必要があった。
そして、もう一つ。
「言葉を翻して心苦しいんだけどな、悪いが真っ向から殺し合いしたとこで俺に勝ちの目なんざある訳ねー。第一こちとら法治国家生まれなもんでね、んな血生臭いやりとりなんざそもそも真っ平なんだよ」
「矛盾だな。ならばその決闘、何を以て決着とする」
「——両膝でどうだい」
「——ほぅ」
勝利条件の挿げ替え。静の狙いの本丸は、この一点に集約される。
「俺とアンタでやり合って、その両膝に土を付けられりゃ俺の勝ち、っての如何だよ。頭を垂れて平伏ってんなら、お命頂戴するまでも無く分かりやすい決着だと思わねーかよ」
「随分と不公平な条件付けだな。それこそ、私が承諾すると思うのか?」
「あぁ、思うね。誉れも名高い騎士様が、小僧風情に舐められっぱなしな訳がねぇ。それとも自信がねーかい、マールス・ブロワ」
「——いいだろう。受けよう、その決闘」
空気が張り詰める。
先程までの緊張などとは比べるべくもない。
大気中の酸素が皆々固形化して全身くまなく押し固めるような、度を越した重圧。その只中で、静は一度だけ短く、深呼吸をした。
——————
クリアしなければならない条件は五つ。
その内四つの達成までは漕ぎ着けた。
ただし、それらは全て前提に過ぎない。
「一つ確認だが、貴公の敗北条件の取決めがなかったな」
最後の条件。
求められる、最大にして最難関。これを踏破出来ないのなら、ここまで積み上げてきた全ての条件など、何の意味も持たない。
「はっ、んなもん決める必要ねーだろうが」
騎士が槍を。少年が拳を。
互いが互いへと向けて、思い思いの構えをとる。
「そもそもアンタにとっちゃ排除するべき邪魔虫だろ——くたばる以外の負け方が俺にあんのかよ、悪夢野郎」
「なるほど尤もだ。ならば結構、はじめるとしようか——名乗りを赦そう、少年」
「シジマ・ハナフキだ、アンティーク。膝だけなんてみみっちい事いわねぇよ。今度こそ、そのツラごと土まみれにしてやるよ——‼︎」
最後の条件。
全ての策は、花蕗静が黒鉄の騎士を打倒する事を前提に組み立てられている。
故にこの宵、この一度限り。
花蕗静は踏み越えなければならない。
産み落とされた、幻想の超然を。




