『スピカ』
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「……なにしてるの、抄帷ちゃん」
窓をまじまじ調べながら、何やら難しい顔をして見せるその姿に、部屋の主が困惑の声を投げかける。
「万が一、部屋の中側に昨日のアレらが現れたら、ここから飛び降りて逃げられるかなって」
「な、なるほど」
想定よりも遥かに不穏当な——ひたすらにその身を案じる言葉に——仙波星翠は今、伝えるべき大切な言葉を思い出した。
「——ありがとう、抄帷ちゃん」
窓を調べる手を止めて、抄帷が星翠へと視線を移す。
真っ直ぐに向けられる、深く、昏い眼差し。
かつて——或いは、ある種気圧されるようにすら感じていたその瞳は今、世辞でも誇張でもなく、世界で最も信じるに足る輝きを放つ光だった。
「一番初めの相談から、今日まで……本当に」
それは本来、一番初めに伝えなければならなかった言葉。
驚天動地の坩堝の底、言い表せなかった大切な感情。
向けられた想いに、少女が口を開く。
その姿を、星翠は知っていた。
きっと、彼女は否定するのだろう。
救う為なんていうのは建前で。貫き通そうとする自らのエゴ、その向かう先が噛み合っただけの結果論だと。彼女はきっと、己の優しさを認めようとはしないのだろう。
けれど。その言葉に甘え続ける事は、なにかとても、大きな過ちである様に思えて。開かれた口から次の言葉が紡がれるよりも早く、自らの胸の内を、仙波星翠は言葉にした。
「現実の対策、みたいな話ってだけじゃなくて。昨日も、今日も。抄帷ちゃんに花蕗君——二人がいてくれなかったらきっと、こんな風に普通になんて居られなかったと思う。だから、ありがとう。その……一緒に居てくれて」
ベットに腰掛けたまま。伏せがちな顔で——けれども視線だけは確と抄帷へと向いて。
痛切な感謝の言葉に、開けた口は言葉を形作らず、やわらかな微笑みへと結ばれた。
それから、一拍の間を空けて。肩をすくめながら、
「——お役に立てて、かな。力になれてるみたいでよかった」
口にされた言い回しに、星翠が口元を押さえた。
「今の。すごくそっくりだったよ、花蕗君に」
ぱちくりと目を丸くしてから、抄帷はわざとらしくジトっとした目付きをしてみせる。
「それは、なんというか、大変に複雑な心持ち……そんなに?」
「うん。とっても」
「それはあれだね、えぇと……」
数秒の沈黙。やがて、ジト目を若干の苦悶へと移ろわせて、
「……駄目だ、不服……!」
絞り出す様に放たれた言葉に、星翠は声を上げて笑ってしまった。
「嫌だった?ごめんね」
今日まで何度も、口癖の様に使われてきた謝罪の言葉。けれども今や、そこに後ろ暗さや心底からの申し訳なさなどは微塵も含まれず。それが伝わるだけの穏やかな声色に微か、胸を撫で下ろしつつ。抄帷は殊更わざとらしく、口を尖らせた。
「心底気に入らないとか、決してそんな事はないのだけれど……それにしても、あの二枚舌と似ていると言われるのは、些か心外というか、納得いかないというか……」
おかしそうに顔を綻ばせながら。ふと、星翠はこの話題とは別……抱いた細やかな疑問を口にした。
「ねぇ、一個聞いてもいい?」
「なに?」
「その〝二枚舌〟って言うのも、渾名付けの一環なの?ほら、花蕗君って……不思議な渾名で人の事呼ぶ癖があるでしょ?それに対抗してるのかなって」
「あー、〝不感症〟とか……〝文学兎〟はちょっと面白かったけど」
「……兎はまぁ、あれだけど。不感症はちゃんと悪口だよねぇ……」
「しっかりセクハラだしね……まぁ、的を射てるのには違いないけれど」
「え、そうなの?」
無邪気な疑問に小さく頷き、少しだけ考え込む仕草を挟んでから。
「私は余り、私の事が大切じゃないんだ」
不穏当にも程がある独白を。酷く穏やかに口にした。
「希死念慮とか、そこまで大それた話ではないのだけれど。薄らと、自分の居場所が此処にはない様な心持ちが昔からずっとあって。楽しい事や嬉しい事、その逆に対しても、没頭するというのが出来なくて。そんな風に長く生きている内にいつの間にか、気付いたら〝自分自身〟というものの優先順位が低くなってしまって」
「——自分が、大切じゃない」
確認する様に。
或いは、自らに問い直す様に。
繰り返された同じ言葉に、抄帷が頷く。
「自分が大切じゃないから、自分の欲しいものもわからない。こういう人間でありたいだとか、こういう生き方をしたい、みたいな想いが私の中にはないんだ。それでも人生はこれからも続くし、草花の様に黙してもいられない。だから私は、〝他人からの見え方〟だけを指標に、ずっと生きている」
唐突といえばそうだろう。
友人関係でこそあれ、ただのクラスメイトだった少女から語られた、己のアイデンティティ。けれどもそれは、青臭い自分語りと片付けるには余りに暗く、鉛の如き鈍い重さを伴っていた。
そして。その感情には、覚えがあった。
「正しいとされること。善良と呼ばれるもの。そうした、形のない色々を積み上げていけば、空っぽな自分でも〝善い〟人間になれるんじゃないかって。そんな私の伽藍堂を手厳しく言い表すとしたら、そうだね——セクハラ紛いの彼の言葉は、やっぱり結局的を射てるんだと思う」
生きる事。
未だ幼く、その酸いも甘いも知らないだろう学生の身空で語るには、余りに遠大な主題。時を経て、歳を重ねて。その果てにこそ言い表すことは許されるのかもしれない。
——けれど、では。今の私達が抱いているこの感情は、ただただ稚拙なばかりの、未完成故の澱でしかないのだろうか。
その感情には覚えがあった。
他人からの評価、家族からの言葉、友人たちからの評判。
不確かで取り留めがない——確立された自分自身がないから、自らの行先を他人に委ねる。それは確かに、仙波星翠の生きてきたこれまでそのものだった。
合掌抄帷は、仙波星翠と同じ目線で生きている。
白日のもとに晒されたその事実はしかし、俄かには信じ難いものだった。少なくとも、他人であるはずの星翠を救う為に——恐るべき事に比喩では無く——その身を賭した行動が、空っぽな内情から浮かび上がるなど、想像もつかなかった。
「——花蕗君」
——切っ掛けがあったのだ。
彼女の言葉に過去形は含まれなかった。
今尚彼女にとって〝自分自身〟は大切に扱われるものではないし、その生き方が根本的に変わったわけではない。
それでも。誰かを救う為に、誰かの為に生きる事を決断するに至る切っ掛けが、何か一つ。
そしてそれはきっと、たった一人の人間であったのだ。
「あの人は——その事を知ってるんだよ、ね」
抄帷が頷く。
懐かしむ様な……もう、遠く届かない何かに想いを馳せる様な、穏やかで……少しだけ寂しげな表情で。
「昔一度、尋ねてみた事があるんだ。自分を大切に出来ないというのは〝人間〟としておかしいのかな、って」
肯定も、否定も。
どちらを言葉にしても、きっと答えには届かない。
「——花蕗静は、なんて?」
ならばきっと、必要だったのは答えではない。
「『知らん。後、主語がでけぇ』……だって」
結局。選び取るのは自分自身でしかないのだから。
「人間かく生きるべきか、みたいな哲学には興味もないし、そもそも知見もない。だったらその答えを俺に求めるなんていうのはお門違いだろ、ってね……随分と無責任な話だよね」
小さな笑みを添えて語られる、花蕗静の過去の言葉。それは確かに、昨晩から今日に至るまで、行動によって示され続けてきた、今と地続きの彼の本質。
それは確かに無責任な言葉だった。
けれどきっと、そもそも彼は他人の人生の責任を負う気などないのだ。
それが出来ないと、知っているのだ。
「自分自身をどう生きようと構わない。誰かに手綱を握らせる必要なんてないし、選んだ生き方に後ろ暗さを覚える事なんてない。彼が口にするのはいつも、てんで無責任で突き放した様な——それでも、私にとっての救いだった」
「——どうして、私に……?」
効率を好み、合理を尊ぶ。
そんな彼女が他でもない今、この話を切り出した理由だけはどうしても分からずに、星翠が問い掛ける。
これに抄帷は、少しだけ悩む素振りを見せてから。
「多分、仙波さんに知っておいて欲しかったんだと思う。嫌かも知れないけれど、きっとあなたと私は似ているから。私の様に、全然思い至らない所から嵐の様に救われることもあるんだって事。それと……私はてんで大した人間ではないし、超能力もないけど……だからこそ、私は最後まで、あなたの味方だって事を」
はっきりと、そう告げた。




