『焼け落ちる空』
「結構な時間になってしまった!」
明朗快活、悔恨高らかに。なんとも間の抜けた言い回しと声色で笑う灯に釣られ、星翠も口元を隠しながら小さく身を震わせる。
結局、追加で一時間程をエルミレオで過ごした四人はようやくこれを後にし、日差しの元へと戻っていた。
疲れ果てた、とまではいかないが。微かに疲弊の色を表情の端に浮かべる静を見て、抄帷が微か、意地の悪い笑みを向ける。
「……女の買い物は長くてしょうがねー、とか?」
「アホ抜かせ。んな主語でけー事言いやしねーよ。長ぇのはアンタ方のお買い物だ」
「あら、これは手厳しい」
応える抄帷の表情を、静がちらと覗き見る。
表情は薄く、感情の発露が見えにくいのは常と変わらない。けれども確かに、その姿からは昨晩までの切迫感が抜け落ち、どこか晴れやかな空気を纏ってすらいた。
「——なに?」
じっと見つめるその視線に気付き、目線を返しながら、抄帷がくりっと小首を傾げる。
「別に。換気が済んだみたいで喜ばしい限りだぜ」
「そうだね。誰かさんのお陰かな」
「そいつぁ表彰もんだ。景品は金一封かい?」
「ばか」
——————
「それでは名残惜しいが、私は行かねばならぬ」
時刻は午後四時過ぎ。結局随分な長丁場を終えて。
仰々しく、下手くそな泣き真似を添え、まるで今生の別れかの様に切り出す灯の姿に、溜息を吐いたのは静だった。
「蟹工船に押し込まれる訳でもあるまいに、大層な別れの挨拶だこって」
「友との別れはいつだって寂しいものなんだよ、旦那……ところで蟹工船ってなに?」
「小林多喜二の小説だよ。プロレタリア文学だね」
星翠の解説に、抄帷が一拍空けて、
「……俺ら東京さ行ぐだ、だっけ」
余りにも間抜けな言葉を口にした。
「そりゃ幾三だ。ちゃんと地獄に行けや」
「賢そうなやりとり!全然わかんない!」
言いながら楽しげに笑う灯の姿を端と見やって。星翠は不意に、今し方彼女の口にした言葉を思い返していた。
友との別れはいつだって寂しい。
それが、次またいつ会えるかもわからない様な重苦しいものであったなら、尚の事。
賑やかで楽しかった一日が終わってしまう。
迫り来る幻想の異質は足取りすら掴めておらず、またいつこの身を襲い来るかも知らない。
目を逸らしていた……或いは意図して蓋をしていた不安が、堰を切って溢れそうになる。感情の濁流に飲み込まれまいと必死に抗いながら、それでも。上手く笑えているのかわからず、顔を伏せてしまいそうになる。
まるで幼い子供の様だ。
自嘲的な内罰が心を満たす。
「星翠や星翠。私との別れが辛いのはわかるが、そんな悲しそうな顔をされるでないぞ……!」
冗談めかした灯の言葉に、咄嗟に答える事ができなかったのは、その言葉が確かに、自らの抱え込んでいる本心を的確に表したものだったから。
子供じみた寂寥。この場に相応しくなど無い本音を言い繕うための嘘を必死で探す。けれど結局、それら一切は徒労でしかなかった。
「……そいや来週末、イベントやるって告知打ってたな」
「——急に何の話?」
「ビリヤニだよ、ビリヤニ。フラミンゴっつったか、あそこの店」
「あああ!見た見たそんで忘れてた!マンスアニバーサリーで限定百食のマトンビリヤニ50%オフ!」
「……アニバーサリー刻みすぎでは?」
商魂逞しい店側の戦略に苦言を呈する抄帷を、静が笑いながら応える。
「祝いの席なんざあったらあっただけ悪かねーだろ。な、文系兎」
「え?あ、うん、え?」
「なにその渾名可愛い。旦那、私には?」
「姦し読モ」
「わぉ!辛辣!」
——————
——その言葉が何のためか。わからないと惚けられるほど、察しの悪い人間ではなかった。
「羊肉は嫌いじゃねーしな。苦学生にゃ安売り特売の類は有難い限りだ。都合が付くなら来週行くか、インディカ米」
「イエス、バスマティ!」
「米要素しか残ってないけれど」
それは、約束。
幻想に蝕まれた先の現実の、日常を守る為の待ち合わせ。
仙波星翠を繋ぎ止める為の、未来の予定。
「どうだい、眠り姫。ジビエはお嫌いかい?」
「マトンカレーってジビエカウントなの?」
「イエス、バスマティ!」
「もういぃってんだよ、それは」
追い詰められた現実。
何一つ解決などしていない只中で、それでも。
「——うぅん、大好き」
仙波星翠は、どこまでも透き通る様な満面の笑顔で応えた。
——————
「今晩、泊まろうと思うんだ」
「誰が」
「私」
「どこに?」
「仙波さんのお家」
「え」
灯と別れた後。
帰りの道すがら、思い出した様に口にされた言葉に星翠が目を丸くする。ただし、これまでの——合掌抄帷の……ある種後先を考えない提案とは異なり、今回その意図を、三人は明確に共有していた。
「——ま、悪くねーんじゃねーの」
初日、アポ無しでの自宅訪問を嗜めた静が、今度はあっさりと同意を示す。
「あの騎士様諸共、お嬢さんの部屋に現れたドッペルゲンガーとの関連もまるで不透明だからな。万一寝込みに突撃される様な事がありゃ、人手はあるに越した事ねーだろ」
「で、でももしまたアレが来たとしたら……」
対処する事など出来ないのでは無いか。
その疑問を、しかし抄帷はあっさりと肯定した。
「自宅にまで昨日の騎士が押しかけて来れば、どちらにしても私達に出来る事はないよ。だから、私が今晩を一緒に過ごすっていうのは、細やかな保険みたいなものなんだ」
「保険……?」
「万一野郎が現れた時のネゴシエーション要員って訳だ。ま、どれだけ功を奏すかは知らねーが、どちらにしたってやれる事が多い訳じゃねーんだ。思い付いたら片っ端からってな」
現れた幻想が有していた、明確な意思。
言葉を解さぬ人外の異形ではなし、交渉により何某か有益な情報を引き出す事が出来れば、次の一手に繋げる事が出来るかもしれない。
希望的観測といえばまさにそれまで。しかし、静の言う通り、他に出来る選択肢がある訳でもない以上、苦肉の策は唯一の手段である様に思えた。
「ご家族の説得だけ、鬼門と言えば鬼門だけどな……あのお母ちゃん相手なら、まぁいけそう、か……?」
二人揃って腕を組み、向き合いながら頭を捻る姿に、星翠が小さく吹き出す。
吹き出してから控え目に手を挙げて、
「お母さんなら大丈夫、だと思う。というより、多分喜ぶんじゃないかな、と」
「お、渡りに船じゃねーか。そんじゃそっちは任せるぜ」
「うん。お願いね、仙波さん」
「わ、わかった」
「それじゃあ、向かおうか」
勝手知ったる、でもないが。スタスタと先を歩き始める抄帷に向けて、静が眉を顰めた。
「ぁあ?直行すんのか?」
「そのつもりだけど……だめ?」
「いや、アンタお泊まりセットあんのかい。ご自宅寄らなきゃしゃーねーだろ」
「買ったから大丈夫」
「なにを」
「歯ブラシとインナー」
「……」
「……セクハラ?」
「抜かせ」




