『朝凪、陽だまは頬を撫ぜる』
「そ、そんな事より」
和気藹々と言うべきか。
或いはいっそ喧々囂々と言うべきか。
ともかく、つい先ほどまでの議論——幻想からの侵略者への対策を話し合っていたのと同じ空間とは到底思えない、何とも緩み切った空気感の中。星翠は突然の来訪者へと声を掛けた。
「灯ちゃんはどこか行く予定だったの?」
「駅中のエルミレオ。衣替えに備えて、薄手の上着見に行こうと思って」
言われて、抄帷が小首を傾げる。
「エルミレオって確か、この間改装オープンしたところだよね」
「そーそー!オープンの時に遊び行ったんだけど、アウトレットコーナーとかもあって結構良い感じだったからさー。薄手のカーディガンが欲しいのです」
答えて、その顔をくりっと星翠に向ける。
百面相。向き直ったその表情には、出会い頭に見せたものと同じ、若干の不満が滲んでいた。
「それで星翠と一緒に行こうと思って連絡したら無視されるし、仕方ないから一人寂しく家を出たら、当の本人は優雅にカッフェを楽しんでいるし……私の心はとても冷え込んでおります」
「ご、ごめんねって」
付き合いの長さ故なのだろう。苦言に内包されるのが本気の悪感情でない事は承知の上で、困ったように笑いながら星翠がこれを宥める。
「いーーや、とてもとても許さない。ので、行こう」
「え」
「抄帷も行こう」
「え」
にこやかかつ強引に。誘われた二人はしかし、即座に首を縦に振ることを躊躇った。理由は無論、幻想の強襲。
幻想に住まう異質が、現実に暮らす人々を顧みるとは到底思えない。雑多な雑踏の只中で黒鉄の騎士——軍神・マールスがその猛威を振るえば、甚大な被害は免れない。
出現の要因がわからない以上、警戒を解くわけにはいかない。けれど、それをどう目の前の少女に伝えれば良いのか分からず、二人は言葉に詰まってしまった。
「——いーんじゃねーの?」
二人が揃って静を見る。
その表情は相変わらずの飄々としたもので。特に何をか思い悩む素振りもなかった。
「ただ生憎、本日は先約入れさせて貰っててな。邪魔はしねーが、コブ付きにはなっちまうぜ。構わねーかい、モデル美女」
「おぅおぅ、構やしねーですぜ……というか実際、君達の予定は大丈夫なのかい?誘っておいてあれだけど」
「杞憂も杞憂だ。やっとかなきゃなんねー話はひと段落だ。構やしねーさ」
肩をすくめ、あっさりと言ってのける。その真意を測りかね、抄帷と星翠は顔を見合わせるのだった。
——————
「ねえ」
「ぁあ?」
喫茶店を後にし、四人は連れ立って駅を目指す。
仲良さげに笑顔を交わす星翠と灯……その数歩後方を歩く静へと向け、声の調子を落としながら、隣を歩く抄帷が疑問を口にする。
「なんで止めなかったの」
「何をだよ」
「エルミレオ。悠長に買い物してる場合じゃ無い事は、あなたが一番わかってるでしょ?」
「あー……まぁ、時と場合を弁えてるとは言い難いかもな」
「——もしかしてさっきの妙案と関係があるの?」
「いや、全然」
「嘘でしょ」
呆れたように口をぽかんと開ける抄帷の顔を愉快気に見やりながらしかし、静の眼光が僅かに鋭さを帯びる。
「アンタも見たろ。アレ」
言葉が示すところを正確に理解して、抄帷がこくりと頷く。
「お嬢さんはテンパってて気付かなかったみてーだったけどな。『妄想を現実に引っ張ってくる』ってだけがタネなら、あぁはならねーだろ」
生死の瀬戸際。
他に思考を回す余裕などある訳もなく。故に、幻想の襲撃が齎した痕跡、その不可解さに二人が行き当たったのは昨晩、星翠を自宅に帰してから暫く後であった。
穿ち砕かれた地面。
粉砕された塀。
それら一切の破壊の跡は、それを齎した黒鉄の騎士達と同じ様に、跡形も無く消え失せていた。
「そもそもあんな住宅街の真ん中でドンぱち構してたんだ。通報されてねー方がよっぽど不自然だろ。それが、昨日の今朝で話題にも上がらねーって事は……」
「……あの瞬間、私達がいた場所は〝現実〟じゃなかった……」
風景は変わらず。
街並みは絶えず。
その内側、彼等三人だけが迷い込んだ、見慣れた異界。命のやり取りすら伴った昨夜の正体、それ自体が幻想であったという可能性。
「だから何だって話ではあるし、ぶっちゃけ俺らにゃ何のプラスにも働かねーからな。わざわざ掘っくり返して考え事増やすこともねーだろ」と、静はこの事実を星翠に伝えようとはしなかった。
「連中がツラ現すタイミングは掴めねぇ。挙句下手すりゃ衆人環視でも平気で牙剥いてくる可能性も十分。だったら今更多少の外出如きでビクビクしてる方が精神衛生上良くねーだろ」
「それはそうだろうけれど、だからと言って——」
「——それに」
静にしては珍しい食い気味の言葉に、抄帷は口を噤んだ。
「何も知らねー文学少女が、斬った張ったでいつまでも張り詰め続けられやしねーだろ」
「——っ」
噤んで。次の言葉を紡げずに、押し黙った。
強襲に伴う現実の脅威。
仙波星翠を守る為、救う為。考え得る最悪を想定し続け、その対応策を考え続けていた。そんな中で、気付けば。仙波星翠の感情に対しての視野が狭くなっていたことを、抄帷は痛感した。
ただの高校生。
気性の大人しい、なんら特別な境遇にない、現代日本に暮らす少女が。二十四時間、自らを狙う正体不明の存在に怯え続ける。その精神的負担は恐らく、想像を絶する。
「…………ごめん」
少し立ち止まって考えれば、簡単に分かる、単純な事。そんなものを見落とす程に狼狽えながら、果たして一体誰を救うというのか。
罪悪感とも、単に後ろめたさとも言えない、澱んだ感情を胸に抱きながら。抄帷の口から溢れたのは、短い謝罪の言葉だった。
「別にアンタが悪いって話じゃねーだろ。どちらかと言えば正しいのはアンタだからな。俺の言ってんのは、生えてるかも知らねー揚げ足取った、ただの戯言だよ」
「……私は……」
それは決して、慰めの言葉では無い。そして恐らく、ただ気を遣っただけの言葉でも無いだろう。
それでも事実として。現実を侵食され、心理的な窮地に立たされた仙波星翠のその心に、思い遣りを向け続けていたのは結局、花蕗静ただ一人であったのだ。
立ち止まっている暇はない。
友人である仙波星翠を救う為、今自分が俯く訳にはいかない。
だと言うのに。わかっているのに、それでも——
「適材適所、だろ」
そんな。感情の袋小路で追い詰められそうな少女の耳に、今一度少年の声が。
「アンタが面白半分で事に臨んでるんじゃねーってのはお嬢さんだってわかってる。そもそも俺らはただのガキだからよ、突っ走った先が思い通りになんねーなんざただの風情でしかねーよ」
「……それでも、あなたは——」
「だから、適材適所だっつってんだよ」
抄帷が顔を上げ、振り向くことのない少年の顔を見つめる。
「仙波がどーこーなんねー、だからアンタが助ける。アンタが上手い事やりきれねーって時は、俺がアンタを。そんで、俺が首も回んねーとこまで追い込まれたその時は——」
「——その時は?」
「——テメーが俺を助けろ」
花蕗静は知っている。
一人の人間に出来る事などたかが知れているということを。だから、誰かの力を借りる事になんの抵抗も無い。
誰かを助ける為に身を砕く。
そしてまた、自らの窮地には誰かにそれを期待する。
余りにも人間臭いその言い草に、抄帷はそれ以上の反論を口にすることが出来なかった。
「ま、それと後は——事のついでだ」
「——わ」
ぽん、と。
軽く背中を叩かれて、抄帷が数歩、静の前へと押し出される。唐突なその動作に、抄帷が思わずたたらを踏む。
「なんも特別じゃねーガキンチョって話ぃすんなら、アンタだってそーだろ。気ぃ抜くのだって戦略だぜ、リトルガール」
「おぉ!抄帷さんや、聞いておくれ!今調べてたんだけど、エルミレオにフラミンゴ入ったんだって、フラミンゴ!あの有名なビリヤニ専門店!ランチで食べよ!」
「と、灯ちゃん……それ本当に有名なの……?」
和気藹々と話す二人の少女に追い付いて、彼女達の輪に抄帷が入る。
一瞬だけ。抄帷は静を見つめていたが、灯達に促され、その視線はやがて外された。
——————
他愛の無い会話。
今日何を食べようか。
どんな服があるだろうか。
そんな——極ありふれた会話が交わされるその中で。表情少なではあるものの、口の端に笑みの欠片を見せる抄帷。
友人二人に挟まれ、一時的とは言え恐怖から解放されたのだろう、控え目に笑顔を浮かべる星翠。
そんな彼女達を軽く見やって、花蕗静は小さく——本当に細やかな笑みを浮かべた。
傲慢不遜も。
傍若無人も。
自らが常とするそれら一切を廃した、ただ穏やかなばかりの微笑みを、見る者はなかった。
その目線が、顔が、軽く天を仰ぎ見る。
「ウルトラCとは良く言ったもんだぜ、我ながら」
言いながら。
大きな隈も色濃い目を細めて、静は自嘲的に笑った。




