『微睡』
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微睡の汀。
眼前に広がる不明瞭な景色は、漠々たる丘陵。
青々とした大地は、透き通る空と相まって、とてもとても美しく見えた。幻想的なその景色に、胸が高鳴った。
けれども。
心のどこか深い所……自分でも触れられない内心の欠片が囁きかけてくる。
こんな物は紛い物だ。
幻想めいた現実の吐いた、下らない嘘だ。
広がる景色とは似ても似つかぬ、醜悪で退屈な言葉。
それはけれど、しかし確かな——
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悪夢にうなされ跳び起きる。
仙波星翠にとって、それは人生で初めての経験であった。
脈打つ鼓動は胸では無く、自身の耳元で打ち鳴らされているのではと錯覚する程大きく。呼吸は酷く浅く、荒かった。
——まるで、身体が息の仕方を忘れてしまった様だ。
混濁した思考でぼんやりと他人事の様に思いながら、星翠は幾度か深呼吸を繰り返した。そうしながら、事のついでのように辺りを軽く見回すと、そこには見慣れた自室の景色が広がっていた。
常夜灯の頼りない灯りに照らされる薄暗い部屋。そこに、自分以外の姿がないことに薄らと安堵を抱きながら、時計へと目線を移す。
時刻は午前五時を指し示していた。
——いつの間に眠ってしまったのだろう。
前後の記憶がぼんやりとしている。自室に戻った記憶も、帰りがて家族とどんな言葉を交わしたかすらはっきりとは思い出せない。
ようやく落ち着いてきた呼吸と思考を以て、前日の記憶を手繰る。手繰って、刹那——戦慄を覚えた。
黒鉄の騎士。
異形の群れ。
日常とは余りにかけ離れた逃走。
夢幻の類としか思えない一連の記憶。
だがそれは確かに、昨夜この身を襲った不条理。その生々しい疲労から、再び星翠は強い動悸を感じた。
恐怖。
理解不能な現象、現れた正体不明の異形。それら全てへと向けられた、取り留めのない違和感は確かに、疑いようのない恐怖そのものであった。
——誰か。
知らず、他者への救いを求めた事実に……自分は何と都合の良い人間なのかと辟易する。けれども今はそんな体裁よりも、去来する心細さを取り払う事ばかりを星翠は望んでいた。
無論、自室に人の姿はない。
無音の静寂に身震いし、そんな自らを誤魔化す様にベッドから跳び起きるや、カーテンを開け放つ。
窓から覗く見慣れた住宅街。
微かに光る朝ぼらけの空は未だ淡い藍色を湛えている。ただ、それらを美しいと感じる余裕など今の星翠にはなかった。
恐怖に怯え、心細さに震えるこの心を慰める為の何か。
彼女はただ、そればかりを探していた。
ふと。
視線を落とした先に、人影を見た気がした。
昨夜の恐怖が思い起こされ、咄嗟に見間違いではないかと自身を疑う。けれど、それはやはり確かに人の姿だった。
そしてその姿を、仙波星翠は知っていた。
自室を飛び出し、玄関へと駆ける。
その只中にあって尚、家族を起こさぬ様細心の注意を払い、息を顰める事が出来たのは僥倖であった。
玄関の扉を開ける。
対面の塀に寄りかかって腰を下ろしたその姿は、星翠に向かって手を挙げた。
「よぉ、お早いお目覚めだな眠り姫。お加減は如何程だよ」
「——花蕗君」
傲慢不遜な笑みを浮かべる赤髪の少年。
背中を塀に預けたヤンキー座りで、花蕗静はそこにいた。
そして、影はもう一つ。合掌抄帷の姿もそこにはあった。
静の肩に頭を預け、小さく寝息を立てるその姿に、咄嗟に星翠が声を落とす。
「——二人とも、どうして——」
困惑気味な星翠とは対照的に、静は僅かばかり笑みを深めてみせる。
「割と頑張っちゃいたんだけど、こっちの頑固者は朝型らしくてな。暫くは寝こけてやがるぜ」
「暫く——って、じゃあやっぱり夜中中——?」
「こちとら夜型だからな。大して苦でも無かったぜ」
カラッとした笑みを浮かべるその姿に、星翠は胸の張り裂ける様な痛みを感じた。
ボロボロの衣服。
乱れた髪。
静と抄帷、二人がこの場に留まっていた理由は明白だった。
「——ぁ、なにも——」
なかったか、などと。一体、どの口で言うのか。
襲い来た異形の者ども。忽然と姿を消したその理由が判然としない以上、再びあれらが姿を現さない保証などどこにも無い。故に、彼らはこの場に留まっていたのだ。
今一度、異形が牙を剥いた時。その鋒から、仙波星翠を守る為に。
「あぁ、静かで過ごしやすい、悪くねー夜だったぜ」
言いつつ、静が右肩……その上に乗せられた抄帷の頭を揺する。
「——寝てた」
ぱちりと目を開けて、短く言うその姿に静が溜息を吐く。
「知ってるっつーの。んな事よりほれ、お嬢様のお目覚めだぜ」
促され、微睡んだ眼差しが星翠を捉えた。
「——あぁ、よかった。おはよう、仙波さん」
柔らかく、優しく。緩く解かれた雪解けのような微笑みに、不意に込み上げるものを感じて、星翠は顔を伏せた。
「はっ——揃い踏みで五体満足とは、全く悪運の強いこったぜ」
少女二人を見やりながら、静が立ち上がる。横に立つ抄帷もこれに倣った。
「感動のご対面に水差して悪ぃが、アポ取りのお時間だ。お嬢さん、本日のご予定はどんなもんだい」
空けてこの日は土曜日。幸か不幸か、この休日星翠には何かしらの予定はなかった。
「えっと、特に予定はない、よ」
「そいつは結構、僥倖だ」
軽く体を伸ばして欠伸を吐く静に代わって、未だ眠たげな表情の抄帷がその先を引き受ける。
「仙波さん、今日少し時間を貰えるかな。昨日の事についてちょっと話がしたいんだ。——説明しておきたい事もあるしね」
星翠の表情が、強い緊張に彩られた。目線は無意識に、抄帷の隣——相変わらず体を伸ばしながら、もう一つ大きな欠伸を吐く少年、花蕗静へと向けられた。
常軌を逸した質量の凶器。
その一撃を、空手で弾き飛ばすという不条理。
彼の語ったところの超能力——合掌抄帷が『パラドクス』と呼んだ奇怪な力。
突如現れた騎士や小鬼については言わずもがな。しかしそれと等量に、仙波星翠にとって目の前の少女と少年は、理解不能で奇妙な存在であった。
——だが、それ以上に。
彼らは心底……本気で仙波星翠の身を案じていた。
それを言葉では無く、行動で示していた。
故に。
「——うん、わかった」
断る理由などどこにもない。
提案を快諾した星翠が一歩を踏み出す。
その歩みを、
「いや、今すぐじゃねーぞ。前のめり過ぎんだろ」
花蕗静が遮った。
「昨日の今日でお母ちゃんも心配だろーからよ。内輪が起きてくるまではご在宅願うぜ」
「——あ」
昨晩。
文字通り決死の逃亡劇の果て。暫し周囲を警戒しつつも、異形による新たな攻撃はなかった。
出現要因も、消え失せた理由もわからない以上、現状が安全だと言い切るに足る根拠はどこにもなかった。仙波星翠を自宅に帰すという選択は、抄帷達にとってもひとつの賭けだった。
幸い、彼等を出迎えた月波は、各々の憔悴しきった様子を「随分と楽しかったみたいで嬉しいわ」などと、やや見当違いな方向に勘違いした為、三人が何かしらの詰問に晒される事はなかった。……尤もこれは、帰宅直後余りにも常と変わらぬ立ち振る舞いを見せた静の功績によるところも大きかったのだが。
それでも、明らかに疲労色濃い愛娘の姿に、一抹の不安感を抱いている様子は隠し難く。それが見てとれたからこその言葉であった。
「お母ちゃん安心させて、朝飯食ってからでいーだろ。俺らは俺らで身支度してーしな」
「——わか、った」
つっかえつっかえに頷いた星翠を見て、はたと。思い出したように静が口角を上げる。
「んーなほっぽられた兎みてーなツラしなくても、二人揃って捌けやしねーよ。安心してのんびりして来いよ」
「うん。ちゃんと、どちらかは此処にいるから」
矢継ぎ早に言われ。
自覚の無かったか自らの表情に赤面しつつ、星翠は家の中へと戻っていった。




