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『持たざる者』

 陰湿で醜悪。

 外見に対して頓着の無い抄帷を以てしても、嫌悪感を隠せない——小鬼の下卑た嘲笑は、さながらこの世の醜さを一纏めに束ねた様な陰湿なものであった。

 その濁った瞳が、星翠を捉えた。

 

 睨め付けるように、舐るように。まるで何をか吟味するかの如く、少女の肢体を無遠慮な視線が這いずる。その余りの気持ちの悪さに、星翠が自身の肩を抱き、身を震わせる。


 視線には明確な目的などとは縁遠い、渦巻く情欲がへばり付いていた。不躾に注がれる、濁った眼線を遮る様に。立ち上がり、真っ直ぐに正面を見据える合掌抄帷が立ちはだかる。


 徒手空拳。

 黒鉄の異形の前に立ち塞がった花蕗静と同じく、その手は何の武器も持ち合わせない空手。にも関わらず迷い無く、庇う様に屹立するその姿に、仙波星翠の脳裏をある予感が掠める。——即ち、目の前の少女もまた、常世ならざる異能を有しているという、その可能性。

「——抄帷ちゃん、もしかして——」

 だが。そんな、ある種の祈りにも似た希望的観測は、他でも無い合掌抄帷自らの手で打ち砕かれる。

 振り返りはしないまま、首は小さく左右に振る。

「残念だけど、静の様な力は私には無いよ」

 言葉に、星翠の顔が青ざめる。


 武器は無く。常理を外れた超能を有するでも無い。状況は断崖、滑落を待つ他ない圧倒的な窮地。そんな絶望の瀬戸際でしかし、眼前に立つ少女が退くことはなかった。


 小鬼が跳躍する。

 手にした棍棒を大きく振りかぶりながら、抄帷目掛けて真っ直ぐに。

 直線的な軌道を描きながら迫り来る影を前にしながら。恐怖を理由に、少女の目線が小鬼から背けられることはなく。


「——だけどそれは、ここで逃げ出す理由にはならない」


 合掌抄帷は一歩、大きく前へと左足を出す。


 小鬼の間合いの内側。振り下ろされた棍棒、袈裟の軌道を描いた一撃を掻い潜り小鬼の背面側へと身を滑らせる。

 

 突出した身体能力を有している訳ではない抄帷の動作には、決して目を見張る程の流麗さはなかった。それでも、一切の迷いや躊躇いを伴わずに決行されたその動作は、逡巡が介在しない分だけ、小鬼の一撃——その到達よりも一瞬速く完遂された。

 棍棒が虚空を引き裂く。眼前の少女がとった回避行動——しかもそれが前進を伴い、間合いを潰す形で行われたという事実。二重の衝撃に、小鬼の落ち窪んだ眼が強く見開かれる。


 踏み出した左足を軸に、抄帷の体が百八十度時計回りに旋回する。勢いのまま、振り返りざまその左腕が、後方から小鬼の左腕を掴む。

 矢継ぎ早に踏み出された右足。一歩ではなく身体ごと、その背中に飛び乗る様な形で少女が跳ぶ。

「——————」

 度重なる予想外からか、小鬼が不気味な奇声を発する。

 金属同士を擦り合わせた様な、耳に痛い金切り声。理解し得る人語の体をなす事のないまま、ただ木霊する絶叫はしかし、抄帷の動作を阻止するには至らない。

 倒れ込む刹那。残った右腕で小鬼の右腕を掴むや、それを関節とは逆方向に引き込む。


 鈍い音と共に地に伏す小鬼。その背中と左腕に足を乗せ抑えつける。背面方向に伸ばす形に引き込んだ右腕を、肩から滑り込ませた自らの右足で羽交い締めに。

 一合の刹那。合掌抄帷は、異形の小鬼を組み伏せ、制圧した。


「——すごい」

 鮮やかで合理的。凶器を振り翳されながら敢行された一連の護身術に場も弁えず見惚れ、星翠は思わず呟いていた。

 各関節の可動域を制限され、なす術のない小鬼が乱暴に身を捩らせ、拘束からの脱出を試みる。

「特別な何かがないから何も出来ませんでした、という訳にはいかないんだ。痛くしてごめんね」

 口調は柔らかく、厳然と自らの優位を言い放つ。


 ——だが。圧倒的優勢に立ち、渾身の力でその体躯を抑え込みながらしかし、抄帷の胸中に余裕の類は欠片もなかった。


 一年程前から寸暇を惜しんで研鑽に努めた独学の護身術。この窮地において鍛えた技が正確に決まった僥倖にはしかし、運の占める割合が極めて大きかった。

 

 相手がこちらを無力と決めてかかった油断。

 相手との距離が、練習時想定していた接敵距離とほぼ同一だった事。

 優位は、幾つかの要因を辛うじて掬い上げた末の現状でしかなく。今一度拘束を逃れた小鬼を相手に同じ事が出来る可能性は極めて低い。


 ——だから、絶対に逃がさない——!


 分析もほどほどに、抄帷は異形を圧する自身の全身に改めて、在らん限りの力を込める。

 この世ならざる異形の小鬼。だが幸いにも、その腕力・膂力は埒外な代物ではなかった。精々が成人男性と同程度と、静を実験台にした過去の練習経験を根拠に抄帷は判断する。

 ならば、可能。

 完璧に技が決まった今ならば、体力が尽きるまでの短い時間だけなら、この異形をこの場に押し留めることが出来る。


 ——黒鉄の騎士と小鬼、両者を関連付けないで現状を判断する事の方が余程不自然。彼らが同じ要因によって現れた存在だと仮定するなら、その目的も共通であると考えるのが妥当。つまり、この小鬼の目的は騎士と同じく、仙波星翠。


 攻撃の第三波がないという保証はどこにもない。だが、だからと言ってこのまま小鬼を取り逃がす事も出来ない。


 ——出来る事しか出来ない。今選択可能な最善は、可能な限りコレをこの場に縫い付け、仙波さんの逃走時間を稼ぐ事。


 数秒の間。駆け巡った思考の末、未だ力無く立ち尽くす友人へと逃走指示を出そうとした、その時。


 後方から、物音と気配。


 再び恐怖と混乱に染まった仙波星翠の表情に、背後に広がるであろう最悪の状況に覚悟を。込める力は緩める事なく、首だけを後方に向ける。


 ——左右の塀の上。道の中央。そこに、複数の影があった。


 今しがた組み敷いたものと同じ、醜悪な面。総数十を超える小鬼の軍勢が皆一様に、下卑た笑みを浮かべたまま、合掌抄帷と仙波星翠を見下ろし——あるいは見据えていた。


「あー……それは、無理」

 苦々しく呟くや、小鬼の右腕を極めていた足に力を込める。

 無理な方向に圧力を掛けられた痛みから、小鬼が未だ手にしていた棍棒が取り落とされる。

 するりと拘束を解除し、足元の棍棒を数メートル先まで蹴り飛ばしてから、抄帷が矢のように前方——星翠の方へと駆ける。

 

「走って‼︎」

 手を掴まれ、叫ぶその声にようやく、星翠の手先に力が籠る。弾かれたように足を前へ。今一度、二人の逃走が再開された。

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