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――第 098 幕 苦い奔流――

 黄褐色の絨毛(じゅうもう)が足の裏に吸い付く回廊の奥。 空気の粘度が異常に跳ね上がり、呼吸器をドロドロのゼリーで塞がれる。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 古いタイヤを燃やしたような化学的な苦味が、舌の根をビリビリと痺れさせる。 前方の視界が、緑色の壁によって完全に塞がれていた。 天井の巨大な括約筋(かつやくきん)が開き、そこから抹茶と汚泥を混ぜたような重い粘性を持つ液体が、絶え間なく流れ落ちている。

 バチバチバチッ。

 床の肉に叩きつけられた緑色の液体が、重い飛沫となって跳ね返る。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 タイヤの焦げる苦味が膨張(ぼうちょう)する。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「私」は完全に炭化(たんか)して癒着(ゆちゃく)した右手の石札を掲げ、熱の傘を作る。 緑色の粘液(ねんえき)が熱に触れた端から「ジュワッ」と白煙を上げる。 気化しきれない数滴が「私」のコートの裾にボトボトと付着し、鼻が曲がるほどの刺激臭を放つ。

「ゲハッ、ゴボォッ」

 前方を歩いていた助手が大きくむせ返り、胃の内容物を床の肉へ吐き出す。 緑色の汚泥に混じって、乾いた音が鳴った。

 カラン。

 吐瀉物(としゃぶつ)の中から転がり出た「銀色の指輪」と「プラスチックのボタン」が、床の肉から滲み出る酸に触れ、微細な泡を立てて白く濁っていく。

 なぜ彼がそのような異物を飲み込み、そして吐き出したのか。 その生態学的なエラーを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく古いタイヤの化学的な苦味と酸の刺激臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気(ガス)が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 助手は全身に緑色の粘液(ねんえき)をベットリと纏い、頭髪が頭皮に張り付いている。 割れた眼鏡のレンズの奥で、瞳孔がデタラメな方向へ高速で揺れ続けている。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 背後で、金髪の男が上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 警官の気管が細かく引き攣り、摩擦音が漏れる。 彼らは自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。

 彼は振り返り、「私」たちに向かって、ゆっくりと手を振る。 「おいで、浄化されるよ」 その歯は、胆汁(たんじゅう)の色素に染まって緑色に変色している。 口角が両耳に向かって限界まで引き裂かれるように上へ吊り上がる。 緑色の粘液(ねんえき)の飛沫音と、古いタイヤの苦味がドロドロに混ざり合う。

 私は、熱の傘を彼にも差し出し、その狂気から引き戻すべきなのだろう。 いや、本当は違う。 私はただ、石の熱で作られた安全な内側から、彼が緑色の汚泥にまみれ、人間としての尊厳を喪失して無様に狂っていく様を薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が本能と狂気に支配され、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼が異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 古いタイヤの苦味と強烈な酸の刺激臭がこもる空間に、ただ粘液(ねんえき)の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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