――第 099 幕 融合する知性――
緑色の瀑布を抜け落ちた先は、空気の粘度がさらに一段階跳ね上がった空間だった。 息を吸い込むたび、古いタイヤを燃やしたような化学的な苦味が、気管支の内側をザラザラと削り落としていく。 赤黒い筋肉の層は終わりを告げていた。 周囲の壁面は、滑らかで湿った黄褐色の上皮組織へと変質している。 壁の表面には無数の微細な突起がびっしりと生え揃い、床下から響く重低音に合わせて、イソギンチャクのように一斉に微細な痙攣を繰り返していた。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
その黄褐色の回廊のど真ん中で、助手が立ち止まっていた。 酸で溶け落ちた白衣の残骸。 半裸の身体は、頭から被った緑色の胆汁にまみれ、ドロドロの汚泥の彫像と化している。 割れた眼鏡の奥、彼の瞳孔は限界まで開ききっていた。 白目の毛細血管が充血し、どす黒い赤に染まっている。
「……計算が、合った」 彼の口角が、物理的な限界を超えて両耳へ向かって引き裂かれるように、ミリッと音を立てて上へ吊り上がる。 顎を動かすたびに、口の端から緑色の胆汁がブクブクと細かい泡沫となって溢れ出した。 助手は長く伸ばした舌で下から上へと舐め取った。
味見。
ザラついた舌が自らの顔を這う、粘着質な水音。 古いタイヤを燃やしたような苦味が四十度の熱風に乗って膨張する。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ。
「……細胞膜の透過性が、極限まで上がっている」 彼は、壁にびっしりと生えた微細な突起へ、酸で溶けかけて骨の覗く右手をゆっくりと伸ばした。 そして、ねっとりとした手つきで、その湿った壁の肉を執拗に撫で回し始めた。
分泌。
壁の肉が助手の指に吸い付き、ドロリとした緑色の粘液を際限なく溢れさせる。
「ここは情報のアーカイブだ。消化とは、個を分解して全体に統合する、極めて効率的なプロセスなんだよ」 彼の口から押し出される言葉は、文法こそ保たれていた。 壊れたスピーカーが合成音声を垂れ流すような、ひどく平坦でフラットな声帯の震え。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。
助手は、自分の酸で赤く爛れた左腕に、右手の人差し指と親指の爪を立てた。
剥離。
緑色に染まった皮膚の表面を、ピンセットで薄いフィルムを扱うように、ペリッと無造作にめくり上げる。 血は出ない。 剥がれた皮膚の下。 赤い筋肉が露出するはずのそこに、無数の小さな「ピンク色の肉芽」が密集して生えていた。 その肉芽の形は、今彼が愛撫している壁の突起と、寸分違わぬ同じ形状をしていた。 微細な肉の粒が、空気を求めてヒクヒクと一斉に蠢いている。
「見てくれ。下から新しい組織が出ている。僕の肉体が、環境に最適化しているんだ」 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
なぜ、彼が自らの皮を剥ぎ、狂気に呑み込まれていくのを制止しないのか。 彼の肉体の変異のメカニズムを論理的に分析し、直ちに引き戻すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく古いタイヤを燃やしたような化学的な苦味と緑色の胆汁の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、ホッチキスで乱暴に縫合された左腕の傷口から膿のような微熱を感じながら、彼が人間としての尊厳を自ら剥ぎ取り、異界の壁と同化して無様に狂っていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が理性を手放し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼が異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、人間の側」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そして何より、彼が率先して道を開き、身をもって犠牲になってくれれば、私が先頭に立つ責任を負わずに済む。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化と逃避の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
視神経がチリチリと点滅し、網膜に砂嵐が走る。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
「……チッ」 背後で、金髪の男が短く舌打ちをした。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 警官は、自らの枯れた右腕を抱え込み、後ずさる。 彼女の首の静脈が不規則に隆起し、喉から空気が擦れる音が鳴る。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
距離を取る二人を、助手が振り返って見下ろした。 その目は、シャーレの中で蠢く無価値な微生物を観察するような、一切の熱を排した「ただのガラス玉」だった。
「まだ個体に固執しているのかい?」 助手の喉の奥から、胆汁の絡んだ「ジュルジュル」という湿った摩擦音が漏れる。 「早く混ざりなよ。……無駄がなくなる」 彼は前を向き、歩き出した。
歩行音。
助手の靴底が、濡れたスポンジを踏み潰すような音を立てる。 その足音のリズムが、周囲の黄褐色の壁が波打つ「ドクン、ドクン」という巨大な脈動と、完全に同調していた。 彼が進む先。 固く重なり合っていた腸管の襞が、「ズチュゥッ」と粘着音を立てて左右に開く。
「私」は、完全に炭化して肉と癒着した右手のポケットの底で、石札が放つ鋭い冷気を握り込み直す。 欠けた奥歯の隙間から、苦い唾液を飲み込み。 狂人がこじ開けた、ドロドロの泥濘の回廊へと、サイズの合わない革靴を沈み込ませた。
古いタイヤの苦味と緑色の胆汁の臭気がこもる空間に、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




