――第 100 幕 メビウスの腸――
視界の端から、色彩がずるずると抜け落ちていく。 ピンク色の肉壁が、どこまでもチューブ状に続いている。 幾重にも重なり合う襞が、微細な収縮を繰り返し、その度に「グチャ、ベチャ」という極めて湿った摩擦音が密室で反響する。 胃酸の酸っぱさと、古い血が酸化した鉄錆の臭いが、サウナのような熱気と共に気管支にべったりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
歩を進める。
墜落。
平らな床を歩いていたはずの足の裏から、重力が斜めにねじ曲げられた。 いきなり「真横の壁」へ向かって叩きつけられる。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。 とっさに膝をつく。 床だと思っていた肉の感触が、壁のカーブにすり替わっている。 天井が床に、右壁が左壁に、継ぎ目なく反転していく。 毛穴から滲み出た水分が空気に触れて冷たく張り付く。 視神経がチカチカと点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 ボタンを弾く。
カチッ。
この空間の位相幾何学的な構造を論理的に分析し、次の一歩をどちらの座標へ踏み出すべきか計算すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく胃酸の酸っぱさと鉄錆の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「いつまで続くんだよクソがッ!」 金髪の男が、白く濁った唾液を飛ばして濁った排気音を上げる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 彼はゴム底の靴で、足元の肉を力任せに蹴り上げる。 だが、「ドスッ」という重い音は鳴らない。 壁はゴム鞠のように彼の靴底を包み込み、「ボヨン」と衝撃を完全に吸収して跳ね返した。
彼は、上下と左右に顎の関節を限界まで開き、「ハァッ、ハァッ」と喉の奥から乾いた摩擦音を漏らす。 表面の摩擦係数が失われ、ツルツルと滑る。
「ネチャッ、ネチャァッ」という極めて湿った水音が鳴る。
胃酸と鉄錆の悪臭が膨張する。 視界の端が白く明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼が重力の反転にパニックを起こし、無様に壁を蹴って滑り転がる様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が本能的な恐怖に支配され、滑稽にのたうち回ってくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼が異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、落ち着いている側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を貸そうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
動悸。
指先から温度が抜け落ち、氷のような冷たさが這い上がる。 肋骨の内側を、「ドクン、ドクン」という物理的な打撃音が直接殴打し、頭蓋骨を激しく揺さぶっている。 息を吸うたび、古い血の鉄錆臭が肺の奥から喉元へと、黒いヘドロのようにせり上がってくる。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
胃酸の酸っぱさと鉄錆の悪臭がこもる空間に、ただ粘膜の擦れる水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




