――第 101 幕 酸素の枯渇――
視界の縁が、真っ黒なインクで乱暴に塗りつぶされていく。 光の届く範囲が極端に狭まる。 腸管の壁は、どす黒い暗紫色へと変色し、遅い脈動を繰り返している。 壁の表面から滲み出す黄色い粘液が、背中にべったりと張り付く。 古い血の鉄錆臭と排泄物を煮詰めたような腐敗臭が、濃密なゼリーとなって鼻腔を塞ぐ。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
横で、金髪の男が自らの喉を両手の爪で激しく掻きむしる。 ブチブチと皮膚が裂け、微かな血が滲む。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 紺色のスーツを着た警官が、胸を激しく上下させている。 彼女は口をパクパクと開閉させるだけで、排気音すら出ない。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 鉄錆の悪臭が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
この空間の酸素残量と低下速度を論理的に計算し、彼らの呼吸を確保するための何らかの措置をとるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく排泄物と鉄錆の強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「私」の視界の端で、自分の左足が揺れている。 サイズの合わない革靴の、黒い靴紐が解け、床の粘液に浸って黄色く変色している。 靴紐の結び目の長さが、左右非対称になっている。 壁の暗紫色のシミが、跳ねるウサギの形に見える。 床の粘液の生温かさが、皮膚をべっとりと包み込む。 ウサギのシミ。 一つ、二つ、三つ。
私は、彼らが窒息していくのをただ黙って見つめている。 彼らを助けられないのではない。 本当は違う。 私はただ、彼らが酸素を求めて喉を掻きむしり、醜くのたうち回って壊れていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が本能に支配され、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが弱く惨めであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、呼吸ができる側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。 右手の掌に癒着した石札が、チリチリと微かな熱を放っている。 熱が神経を直接焼く。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
排泄物の腐敗臭と鉄錆の悪臭がこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




