――第 096 幕 重苦しい泥濘――
分厚い筋肉の扉を抜けた途端、氷点下の冷気が唐突に遮断される。 四十度を超えるネットリとした熱風が、重く苦い泥の臭気を運んでくる。 緑色に濁った液体の匂いが気管支の粘膜にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
足元の肉の床には、無数の細長い絨毛がびっしりと生え揃い、不規則な波を打って蠢いている。 サイズの合わない革靴が踏み込むたび、「グチャァッ」という極めて湿った破砕音が響く。 絨毛の隙間から緑がかった黄色い胆汁が滲み出してくる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 古い血の鉄錆臭と苦い泥の臭気が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
前方を歩くヨレたカーディガン姿の助手は、もはや二本足で直立していない。 彼は、緑色の粘液に塗れた肉の床に四つん這いになり、這って進んでいる。 酸で爛れ、自身の肉を噛みちぎった口元から、ドロリとした透明な唾液が垂れ落ちる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
「……、……ッ」 背後で、金髪の男の喉から濁った排気音が漏れる。 彼の着ているスカジャンから、発酵した古い汗とアンモニアの悪臭が立ち上り、熱風とドロドロに混ざり合う。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
紺色のスーツを着た警官が、皮膚の剥がれた右足を引きずり、緑色の泥濘に血の跡を引いていく。 彼女の毛細血管が破裂した眼球は空を向き、口の端から細い摩擦音が「ヒュッ、ヒュッ」と漏れ続けている。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
この異様な環境の変化と、彼らの精神退行のメカニズムを論理的に分析し、直ちに彼らを二本足で立たせるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく重く苦い泥の臭気と発酵した汗の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不快な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼らが人間としての尊厳を完全に喪失し、獣のように泥の中を這いずり回る様を薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が理性を手放し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、立って歩ける側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助け起こそうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化して肉と癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと微熱を放ち、周囲の緑色の液体を焦がす。 焦げたタンパク質の香ばしい悪臭が、苦い泥の臭気と衝突する。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この物理的な激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
ホッチキスで乱暴に縫合された左腕の傷口から、腐った果実のような匂いが微量に漏れ出す。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
四十度を超える熱気と重く苦い泥の悪臭がこもる空間に、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




