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――第 095 幕 禁忌の開通――

 極寒の空気が、気管支の粘膜(ねんまく)を容赦なく凍らせていく。 石札が作り出す熱の結界の外側。 巨大な肉の扉――幽門弁(ゆうもんべん)の前に立つ半裸の男から、湿り気を帯びた摩擦音が漏れた。

「……甘い」

 ヨレたカーディガンを着た助手が、自らの指先にこびりついた黄色い粘液(ねんえき)を、口に含んだ。 弁の隙間から漏れ出す、何日も炎天下に放置された生ゴミと、腐敗した内臓をドロドロに煮詰めたような強烈な排泄ガス(メタン)。 その塊が彼の肺の底まで深く吸い込まれる。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「これは……高純度のアミノ酸だ。適合する。僕の細胞が……!」 助手の口の端から、透明な唾液(だえき)がツーッと垂れ、ボロボロになった白衣の襟にドス黒いシミを作る。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 氷点下の冷気が皮膚の水分を奪う。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 彼は、肉の扉へと張り付いた。 壁の(ひだ)の隙間から滲み出す黄色いドロドロの液体を、両手で掬い上げ、喉を鳴らして口へ運ぶ。

 ズズッ。ジュルルッ。

 氷点下の空間に、粘着質な水音だけが反響する。 排泄ガス(メタン)臭気(におい)膨張(ぼうちょう)する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。

 助手が咀嚼(そしゃく)を繰り返す。 その音の裏側に、「ブチッ、ムチャッ」という、生の肉繊維が千切れる鈍い音が混ざっていた。 彼は、壁の粘液(ねんえき)と共に、酸で溶けかかっていた自分自身の右手の指の皮と肉を噛みちぎり、飲み込んでいる。 眼球が限界まで見開かれ、自らの血が混ざった黄色い汚泥が喉の奥へ流し込まれる。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 この異常な自傷と捕食のメカニズムを論理的に分析し、即座に彼を引き戻すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく生ゴミと腐敗した内臓の強烈な排泄ガス(メタン)が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気(ガス)が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 結界の中で身を寄せていたチンピラと警官が、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 彼らは自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 アンモニアの悪臭が鼻腔を塞ぐ。

「君たちも、食べたまえ。これは、効率的な補給だ」 助手が、ゆっくりと振り返る。 その口の周りは黄色い粘液(ねんえき)と自身の血で汚れ、歯の隙間には黒い繊維がびっしりと挟まっていた。

 私は、狂気に呑まれ自らの肉を食らう彼を止め、その口から汚物を掻き出すべきなのだろう。 だが、私はただ石の熱の安全な結界の内側から、彼が人間性を捨てて無様に汚泥をすする様を薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が本能に支配され、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼が異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、まともな側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

 直後。

 ゴゥン。

 分厚い筋肉の扉の奥で、重い地鳴りのような音が響いた。

 ズズズ……。

 水分を含んだ分厚い唇が擦れ合うような摩擦音を立てて、巨大な肉の(ひだ)が左右にゆっくりと開いていく。

「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化(たんか)して肉と癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)が、チリチリと肉を焦がし続けている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、氷点下の冷気と衝突する。 開かれた扉の奥から、重く、苦い匂いを含んだ熱風が吹き出してきた。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

「私」は、サイズの合わない革靴を、開かれたばかりの泥濘の道へと踏み出した。 極寒の冷気と生ゴミの悪臭がこもる空間に、ただ粘液(ねんえき)の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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