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――第 094 幕 枯渇と摩擦――

 ひび割れた肉の床が、サイズの合わない革靴の底で粉々に砕ける。

 パキッ、パサッ。

 極度に乾燥した土埃と、古い血の鉄錆臭が、四十度を超える熱風に乗って気管支の粘膜(ねんまく)をヤスリのように削り取る。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「……水……」

 紺色のスーツを着た警官の喉から、千切れた笛のような高い摩擦音が鳴る。 彼女の唇は完全にひび割れ、口を動かすたびに赤い血が滲み出しては一瞬で黒く乾燥していく。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 泥と汗の発酵した臭気(ガス)膨張(ぼうちょう)する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 前を歩く金髪の男の背骨が、不規則に左右に揺れる。 彼の口の端から垂れ下がった白く濁った粘着質(ねんちゃくしつ)の泡が、顎の無精髭にこびりついてカチカチに硬化している。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 アンモニアの悪臭(におい)が鼻腔を塞ぐ。

 半裸の助手の皮膚から、水分の蒸発する微細な音が鳴る。

「浸透圧……細胞膜の……」

 彼の割れた眼鏡の奥で、毛細血管の破裂した眼球がデタラメな方向へ高速で揺れ続けている。 酸で(ただ)れた右頬の肉がピクピクと痙攣(けいれん)し、顔面を引き攣らせる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。

 この急激な脱水症状と環境の熱力学的変容を論理的に分析し、彼らに警戒を促すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく極度に乾燥した土埃の匂いと発酵した汗の悪臭(におい)が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気(ガス)が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。

 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 私は彼らに声をかけ、この枯渇から生き延びる方法を模索すべきなのだろう。 だが、私はただサイズの合わない革靴を乾燥した床に押し付けたまま、彼らが水分を失ってひび割れ、無様に干からびていく様を薄目で見下ろしていた。

 他人が限界を迎え、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。

 彼らが弱く惨めであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

「私」の右手のポケットの底。 完全に炭化(たんか)して肉と癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)が、絶対零度の冷気を放ち続けている。

 熱風と冷気が衝突し、胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)する。 舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)と渇きに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 ホッチキスで乱暴に縫合された左腕の傷口から、腐った果実のような甘ったるい匂いが微量に漏れ出し、土埃の匂いとドロドロに混ざり合う。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 極度に乾燥した土埃の匂いと発酵した汗の悪臭(におい)がこもる空間に、ただ床を踏み砕く乾いた音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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