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――第 090 幕 骨と結晶――

 頭上を覆っていた無数の孔が、「ギュチッ」という極めて湿った水音を立てて閉じた。 黄色く濁った酸の豪雨が、唐突に途切れる。 「私」の右手に癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の表面から、脂が沸騰する「チリチリ」という音が消え去る。 火剥けになった神経が直接外気に触れる。 視神経がチカチカと点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「が、ァ……」

 声にならない空気が漏れる。 「私」は、汗とアンモニアの臭いが染み込んだチンピラの背中から、ズルリと滑り降りた。 足がもつれ、ひび割れた床に手をつく。 息を吐くたび、肺の奥から自分自身の焦げた肉の香ばしい悪臭が逆流してくる。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。

 顔を上げる。 空間の透明度が高い。 赤黒い肉壁が後退し、白骨化した構造物と、結晶化した黄色い消化液(ペプシン)の森が広がっている。 足元に、消化されきれなかった金歯、結婚指輪、時計の金属パーツが散乱し、光を乱反射している。 床から突き出た巨大な大腿骨の結晶が、ねじ曲がった螺旋状に隆起している。 転がっている頭蓋骨の眼窩から、黄色く硬化した水滴がポロリ、ポロリと零れ落ちる。 汗とアンモニアの悪臭が膨張(ぼうちょう)する。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 この結晶化した消化液と白骨群の生態学的な構造を論理的に分析し、次なる脅威を予測すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく強烈な酸の刺激臭とアンモニアの悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 ヨレたカーディガンを着た助手が、結晶群へ歩み寄る。 酸で右半分の顔面が(ただ)れ、白衣が黒く焦げている。 彼の口角が両耳の付け根に向かってゆっくりと吊り上がり、酸っぱい唾液(だえき)がこぼれ落ちる。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。

「……ア、アァ……」

 彼の喉の奥から、空気が擦れる摩擦音が漏れる。 彼は突然自分の襟元を掴み、ボロボロになった白衣を乱暴に引き裂いた。 プラスチックのボタンが弾け飛び、血と体液の滲んだシャツごと、床のひび割れた肉へ脱ぎ捨てる。 彼は半裸の姿で両手を広げ、結晶の森へ足を踏み入れる。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 パリッ、パリーン。

 彼が歩を進めるたび、足元で微細な骨の結晶が踏み砕かれ、高い音が響く。 肉の焦げる悪臭とアンモニアの臭気が膨張(ぼうちょう)する。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 私は彼を制止し、狂気の森へ無防備に足を踏み入れるのを引き止めるべきなのだろう。 だが、私はただズタズタになった左腕を抱え込んだまま、彼が理性を失って無様に奇行に走る様を、背後から薄目で見つめていたかっただけだ。 他人が本能と狂気に支配され、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、まともな側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

 右の掌で、完全に炭化(たんか)して肉と癒着(ゆちゃく)した石札が、絶対零度の冷気を放ち始めている。 冷たさが掌の血管から静脈(じょうみゃく)を逆流し、胃壁(いへき)を雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)させる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 酸の刺激臭と肉の焦げる悪臭がこもる空間に、ただ骨を踏み砕く音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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