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――第 089 幕 焦げた聖域――

 黄色く濁った酸の飛沫が、視界を完全に塗り潰している。

 ジューッ、ジューッ。

 頭上数センチの空中で、高濃度の消化液が熱の層に衝突して微細な白煙を上げる。 四十度を超える熱風に乗って、強烈な酸の刺激臭が気管支の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「私」の右の掌と完全に癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)が、チリチリと微細な泡を立てて脂を焦がす。 ローストされた肉のような香ばしさと、古い血の鉄錆臭が膨張(ぼうちょう)する。

「チッ、あちぃなクソッ。肉汁垂らすんじゃねえよ」

「私」を背負って泥沼のような床を歩く金髪の男が、黄色い痰を吐き捨てる。 彼の太い首筋に、「私」の右腕から滲み出した高温の脂と血の混合液が、ポタポタと滴り落ちる。 彼の眼球の毛細血管が破裂し、白目が赤く染まる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 ズリッ。

 酸で液状化した床に、ゴム底の靴が滑る。 「私」の体が大きく揺れ、ホッチキスで乱暴に縫合された左腕の傷口が「ミシッ」と鳴った。

「……ぐ、ぅ」

「私」の喉から、空気が漏れる。 男は足を広げて踏ん張る。 「私」の膝裏を抱え直す。 彼は自分の着ていた派手なスカジャンを脱ぎ、それを「私」の頭からバサリと被せた。 スカジャンの下に、肉の焦げる悪臭と古い汗の臭気(ガス)がこもる。 男は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。

 後方から続く紺色のスーツの女が、手を伸ばした。 彼女は、床の肉を汚す脂と血の跡を、布の切れ端で這いつくばるようにして拭い取る。 拭き取った後、彼女はその布をミリ単位で端を合わせ、ポケットにしまう。 彼女の口から透明な唾液(だえき)がツツーッと垂れ落ちる。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。

 彼らがなぜここまで身を挺して私を守り、痕跡を消そうとしているのか、その生存における利他的な行動原理を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく強烈な酸の刺激臭と肉の焦げる悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 いや、本当は違う。 私はただ、彼らが酸の飛沫に焼かれ、泥に塗れて喘ぎながら私を運ぶ様を、スカジャンの安全な暗がりから薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が私のために泥にまみれ、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常な献身を見せれば見せるほど、自分だけはまだ「正常で、守られるべき側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、自ら歩こうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

 右腕の筋肉繊維が熱で一本ずつ「プチ、プチ」と弾け飛ぶ。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 四十度を超える熱気と肉の焦げる悪臭がこもる空間に、ただ黄色い飛沫の破裂音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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