――第 088 幕 強酸のスコール――
チンピラの、古い汗とアンモニアが染み込んだ背中に頬を押し付ける。 歩幅に合わせて上下するたび、彼の背骨が「私」の肋骨に鈍くぶつかり合う。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
右の掌に完全に癒着した石札の微細な振動。
ジジジジ……。
蜂の羽音のように小刻みに震える石の角が、炭化した肉の隙間に深く食い込む。 遠くから、重機を落としたような重低音が響く。
「気圧が……急降下している」
ヨレたカーディガンを着た助手が、爛れた右頬を引き攣らせながら、掠れた摩擦音を空気に混ぜる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 アンモニアと胃酸の悪臭が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
「来るぞ。……」
彼らの進む先。 狭く息苦しいチューブ状の回廊が唐突に途切れ、視界が異様に開けた空間へと吐き出された。 視神経が砂嵐のように明滅し、上下の座標がドロドロに溶け落ちる。 見上げる遥か上空まで、赤黒く腫れ上がった粘膜のドームが覆い尽くしている。
その天井に無数に存在する、巨大な毛穴のような肉の穴が、一斉に弛緩した。 穴の奥で、どす黒く濁った黄色い液体が、ブクブクと微細な気泡を立てて蠕動している。
直後。
噴出。
天井のすべての毛穴から、高濃度の胆汁と胃酸を煮詰めたような黄色い液体の柱が、猛烈な勢いで降り注いできた。 四十度を超える熱風が、強烈な酸の刺激臭を運んでくる。 気管支がチリチリと焼かれる。
背後で、助手の空気が極端に狭い気道を漏れ出るような濁った摩擦音が鳴る。 彼の肩から提げられていた革製のカバンに、黄色い液滴が数滴、跳ねた。
溶解。
分厚い牛革の表面が、パカッと裂け目を広げ、次の瞬間にドロドロのゼリー状となって崩れ落ちた。 中に入っていたプラスチックのペンや紙の束が、微細な気泡を立てながら、足元の肉の床へとブクブクと沈み込んでいく。 超高濃度の消化液の飛沫。
なぜこの天井から消化液が豪雨のように降り注ぎ、すべてを溶かそうとするのか、この空間の生態学的な構造を論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく強烈な酸の刺激臭とアンモニアの悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「隠れる場所がねえ!」
チンピラが濁った排気音を上げ、背中に「私」を乗せたまま前へ駆けようとする。 足元の肉が酸の飛沫を浴びて、泥沼のような液状化を始めている。
空転。
ゴム底の靴が、溶けた肉の表面を滑る。 黄色い滝が視界を遮る。 頭上から、黄色い液体が降り注ぐ。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
赤い血が、チンピラの腕を伝い、床の溶けた肉に落ちる。 酸と反応した血が、ジュワッと音を立てて毒々しく凝固していく。
私は、彼の背中から降りて、共にこの死の雨を凌ぐ方法を探すべきなのだろう。 だが、私はただ右手に癒着した石札の熱で自身を守りながら、彼が酸の飛沫に焼かれて苦しみ、私の重みに喘ぎながら泥を這いずる様を、彼の背中から薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が本能的な恐怖に支配され、自分の身代わりとなって惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが泥にまみれればまみれるほど、自分だけはまだ「正常で、守られるべき側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」は、自身の肉がローストされる香ばしい悪臭を肺の底まで深く吸い込む。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下した。
右腕を這い上がる鋭利な激痛。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとしたノイズが走る。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
黄色い飛沫が熱の壁を叩く「バチバチ」という激しい破裂音が、頭蓋骨の裏側で反響し続けていた。 酸の刺激臭と焦げた肉の悪臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




