――第 087 幕 熱の伝播――
頭蓋骨の裏側で、ドロドロの粥が煮え立っている。 「私」の左腕は、錆びたホッチキスで繋ぎ合わされたまま、ドス黒い紫色に変色し、パンパンに腫れ上がっている。 傷口の隙間から、腐りきった桃の果肉のような、強烈に甘ったるい腐敗臭が絶え間なく立ち上る。 四十度を超える熱風が、その甘ったるい匂いと血の鉄錆臭を混ぜ合わせ、気管支の粘膜にべったりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
足元のピンク色の粘膜は乾いてひび割れ、散乱するプラスチック片や錆びた針金が転がっている。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 紺色のスーツを着た警官が、枯れ枝のような右腕を胸に抱えたまま、左手で濁った水の入ったペットボトルを「私」の顔の前に突き出す。 水滴が、ボトルの縁で微かに震えている。 「私」のひび割れた唇からは、「ヒューッ」という空気が漏れる。 嚥下するための首の筋肉がピクリとも動かない。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 甘ったるい腐敗臭が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
彼女が自らの枯れた腕の激痛に耐えながら、なぜこの貴重な水分を私に差し出すのか。 その生存における利他的なメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った桃の甘ったるい腐敗臭と古い血の鉄錆臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「あちぃな。死ぬんじゃねえぞ」
金髪の男が視界を遮る。 彼は空気が極端に狭い気道を漏れ出るような濁った摩擦音を鳴らす。 彼の顔の筋肉が不規則に収縮と弛緩を繰り返す。 彼は「私」の身体を乱暴に引き上げ、自らの背中に背負い上げる。 彼のスカジャンから、古い汗とアンモニアの強烈な悪臭が立ち上り、腐った桃の匂いとドロドロに混ざり合う。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が頭蓋骨に響く。 ボタンを弾く。
カチッ。
私は、彼らの負担を減らすために自力で立ち上がるべきなのだろう。 だが、私はただホッチキスの針が肉を引きちぎる激痛に身を任せ、彼らが泥にまみれて私を運ぶ様を背中で感じていたかっただけだ。 他人が私を救おうと必死になり、惨めに汗を流してくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 自分が無力で庇護されるべき被害者なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、自らの足で立つエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の額からドロリとした熱い体液が垂れ落ち、男の首筋へと落ちる。 「私」は、ホッチキスの針が皮膚を引きちぎる鈍い痛みを感じながら、男の汗ばんだスカジャンの背中に、熱を持った顔を深く押し付ける。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
四十度を超える熱気と腐った桃の悪臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




