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――第 086 幕 無慈悲な縫合――

 分厚い肉の括約筋(かつやくきん)を転がり落ちた先。 足元のピンク色の粘膜(ねんまく)は乾いてひび割れ、その隙間に、無数のプラスチック片、赤く錆びた針金、泥と体液でドス黒く変色した布切れが散乱している。 古い倉庫に降り積もった埃と、酸化した鉄の臭いがザラザラと鼻腔に張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

「私」の喉から、気管支が引き攣るような浅い排気音が絶え間なく漏れ続けている。 左腕。 肘から下にかけて、皮膚と分厚い脂肪層が剥離(はくり)し、剥き出しになった赤い筋肉繊維の隙間から、白い橈骨の表面が覗いていた。 心臓が拍動するたびに、千切れた血管の断面からドクドクと鮮血が噴き出す。 それが乾燥した床の埃に落ち、チリチリと微細な泡を立てて黒い染みを広げていく。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 古い埃と鉄錆の臭気が膨張(ぼうちょう)する。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「……欠損だ。作業へ移行する」 ヨレたカーディガンを着た助手が、(ただ)れた右頬の肉をピクピクと痙攣(けいれん)させながら、早口で音声を出力した。 彼の焦点の合わない眼球は、ただ血を噴き出し続ける「左腕の断面」だけに固定されている。 助手は、床の肉に四つん這いになり、散乱するゴミの山を両手で漁り始めた。

 カチャ、ガサッ。

 プラスチックと金属がぶつかる乾いた音。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が頭蓋骨に響く。

「ア、ギィッ……!」

 喉の奥で、濁った音が弾けた。 チンピラの膝と腕が、「私」の身体を床に押し付けて離さない。 チンピラの体から発せられるアンモニア臭が鼻腔を塞ぐ。 「いくぞ」 助手の声帯が震える。 彼は、錆びたホッチキスの口を開き、千切れた肉と肉の端を素手で引き寄せた。

 バチンッ。

 太い金属の針が、皮膚を突き破り、筋肉の繊維を貫通する。 硬質な金属音。 針が肉に食い込む、グチュリという湿った圧搾音。

 バチンッ。

 助手の指が、一定のリズムでホッチキスを打ち込み続ける。 視神経が点滅し、網膜が真っ白なノイズに塗りつぶされる。 「私」は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 口の中に広がる鉄錆の味と、傷口から立ち上るアルコールの臭いが、ドロドロに混ざり合う。 「私」は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。

 なぜ、私は麻酔もない不潔な床で、錆びた文房具による肉体の縫合を黙って受け入れているのか。 その感染症のリスクと生存確率を論理的に計算すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく古い埃とアルコールの悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 バチン。バチン。

「私」の左腕の肉に、次々と赤錆びた針が打ち込まれていく。

 私は、生き延びるためにこの激痛(ペイン)に耐えているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、他人の手によって自分の肉体が無残に引き裂かれ、乱暴に縫い合わされていくこの凄惨な痛覚(ペイン)で、自分自身を罰したかっただけだ。 自分が無力で惨めな被害者として破壊されればされるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 「私はこんなにも傷ついている」という錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この激痛(ペイン)を拒絶するエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

 数メートル離れた壁際で、紺色のスーツを着た警官が、自らの枯れた右腕を抱きしめたまま、壁に顔を押し付けてうずくまっていた。 彼女は、上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせている。

 ガチガチガチ。

「……結合、完了」 助手の喉から排気音が聞こえた。 拘束していたチンピラの重みが退く。 「私」は、荒い息を吐きながら、自らの左腕へ視線を落とした。 肉は無数の錆びた針によって縫い合わされている。 傷口の周囲の皮膚は、ドス黒い紫色へと変質を起こしている。 そこからは、血の臭いとは違う、腐った果実のような甘ったるい腐敗臭(ふはいしゅう)が、微かな熱を伴って立ち上り始めていた。

「私」は、右手のポケットの底で絶対零度の冷気を放つ佐渡赤玉石(さどあかだまいし)を握り込む。 冷たさが掌の血管から静脈(じょうみゃく)を逆流し、胃壁(いへき)を雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)させる。 「私」は大きく顎をずらし、口の中に溜まった血まみれの唾液(だえき)を、乾燥した肉の床へと吐き捨てた。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 古い埃の臭いと腐った果実の悪臭がこもる空間に、ただホッチキスの金属音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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