――第 085 幕 肉の鍵穴――
足元を満たす黄色い液体の水位が、くるぶしを超えている。
チリチリ、チリチリ。
水面で微細な気泡が弾ける発泡音が、絶え間なく鼓膜を叩き続けている。 液面に浮いた古い骨の破片や、溶け崩れたプラスチックの残骸が、波に揺られて「私」のサイズの合わない革靴にコツン、コツンと当たる。 靴の表面の合成皮革が、高濃度の消化液に触れてジュワッと白煙を上げた。 繊維を透過した酸が、足の甲の皮膚に到達し、ヒリヒリとした鈍い痛覚が神経の奥へと浸透する。 強烈な酸の刺激臭が気管支にべっとりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
前方を塞ぐ、分厚い筋肉の括約筋。 「クソッ、開け、開けよ!」 金髪の男が、先端のひしゃげた鉄パイプを肉の襞の隙間にねじ込み、全体重を預けている。 パイプのグリップを握る彼の指先から、ボタボタと赤黒い血が滴り落ちていた。 反動で、自らの爪が数枚、根元から「メリッ」と剥がれ落ちている。 彼の眼球の毛細血管が破裂し、白目が赤く染まる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
この壁の生態学的な構造を論理的に分析し、効率的な突破口を見出すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく強烈な酸の刺激臭と発泡音が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「私」は、完全に炭化し肉と癒着した右手で、佐渡赤玉石を前へ突き出した。 石が「ジュッ」と微かな熱を放つ。 肉の弁が激しく痙攣し、さらに固く萎縮した。 焦げた肉の香ばしい悪臭が膨張する。
横で、紺色のスーツの女が、過呼吸で肩を激しく上下させている。 彼女の口から透明な唾液が垂れ落ちる。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 助手の割れた眼鏡の奥で、瞳孔がデタラメな方向へ高速で揺れ続けている。 上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
壁の中心。 縦に裂けた「窪み」が、ヒクヒクと微細な痙攣を繰り返している。 奥からはドロリとした透明な唾液が滴り落ちている。
「私」は、自らの左腕を、その窪みの奥へ深々と押し込んだ。
裂開。
壁の肉が、「私」の左腕に吸い付き、分厚い筋肉が乱暴に収縮する。 左腕の皮膚と脂肪層がごっそりと剥がれ、赤い筋肉繊維が引きちぎられる。 視神経がチカチカと点滅し、網膜が真っ白に塗り潰される。
「私」の喉の奥から、空気が漏れる摩擦音が鳴る。
私は、彼らを救うために自らの腕を犠牲にし、この血路を切り開いているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、この凄惨な激痛で自分自身を罰し、他人の前で無残に肉を引きちぎられることで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭を相対的に曖昧に塗り潰したかっただけだ。 彼らが恐怖に怯え、私が身を挺すればするほど、自分だけはまだ「正常で、尊い側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この自傷行為へと私を駆り立てているのだ。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
ズズズ……。 分厚い筋肉の扉が、左右に大きく開いた。
直後。
背後で、「ドムッ」と分厚い肉が重なり合う音がして、酸の海への扉が完全に閉ざされた。 「……ハァッ、ハァッ」 金髪の男の喉から、濁った排気音が漏れる。 彼の顔の筋肉は弛緩し、瞳孔がデタラメな方向に揺れている。 彼が倒れ込む「私」の背中を咄嗟に掴んだ手のひらには、べっとりと「私」の酸っぱい脂汗と血がこびりついていた。 古い血の鉄錆臭が空間を満たす。 彼は短い舌打ちをし、自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間を揺らす。
酸の刺激臭と古い血の鉄錆臭がこもる空間に、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




