――第 084 幕 消化液の満潮――
背後の暗闇から、無数の羽が空気を削り取る「ジジジジ」という高周波が迫っている。 逃げ込んだ先は、下り勾配の細いチューブ状の通路だった。 壁面のピンク色の粘膜が、ドクン、ドクンと不規則な拍動を繰り返し、歩くたびに足元の肉が「ジュブッ」と水音を立てて沈み込む。 ツンとする酸の刺激臭が気管支にべったりと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
警官は腫れ上がった右足を引きずり、歯の隙間から「ヒュッ、ヒュッ」と細い摩擦音を漏らし続けていた。 虫に齧られた皮膚の下で異物が蠢く強烈な掻痒感が、彼女の膝の軟骨を強引に折り曲げる。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
助手の割れた眼鏡の奥で、瞳孔がデタラメな方向へ高速で揺れ続けている。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
前方の暗がりから、大量の液体が細い配管を無理やり逆流してくる極めて重く湿った異音が響いた。
湧出。
同時に、鼻腔の奥の粘膜を、ツンとする強烈な酸の刺激臭が焼き焦がす。 通路の奥から押し寄せてきたのは、黄色く白濁した液体の波だった。 波頭が肉の壁に触れるたび、ジュワジュワと微細な気泡を立てて白煙を上げている。 高濃度の消化液の満潮。 波の表面には、黄色い泡に混じって黒い革靴の片割れや、半分白骨化し赤い筋繊維がこびりついている誰かの手首が浮き沈みしていた。 それらが、酸の波に揉まれてカラカラと骨を鳴らす音を立てながら、こちらへ向かって流れてくる。
なぜこの通路に高濃度の消化液が押し寄せているのか、その生態学的なメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく強烈な酸の刺激臭と発泡音が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
波の接近によって、足元の水位がじわじわと上昇し始めた。 前方の通路を、分厚い赤黒い筋肉の括約筋が完全に塞いでいた。 表面には太い静脈が走り、微熱を放っている。
「クソッ、ここもダメかよ!」
金髪の男が、空気を引き裂くような濁った排気音を上げ、手にしていた先端のひしゃげた鉄パイプで筋肉の壁を力任せに殴りつける。
打撃。
分厚い脂肪層に阻まれ、湿った打撃音が響くだけで、壁はビクともしない。 彼は歯を剥き出しにし、ゴム底のスニーカーで肉の弁を蹴り飛ばした。
腐食。
靴底が弁の表面に触れた瞬間、そこに付着していた高濃度の酸が反応し、ゴムが溶けて黄色い煙が上がった。
「熱ッ……開かねえ!」
チンピラは足を引っ込め、自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 ボタンを弾く。
カチッ。
私は、迫り来る酸の波から彼らを守り、この筋肉の壁をこじ開ける方法を直ちに実行すべきなのだろう。 だが、私はただ右手を前へ突き出したまま、彼らが酸に焼かれ、恐怖に顔を引き攣らせて壁を叩く様を薄目で見下ろしていた。 他人が本能的な恐怖に支配され、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを本気で救い出そうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」は、完全に炭化し肉と癒着した右手で、佐渡赤玉石を前へ突き出した。 石が「ジュッ」と微かな熱を放つ。 筋肉の弁はさらに固く萎縮した。 壁の中心。そこに、人間の口のように縦に裂けた「窪み」があった。 その窪みの縁は、ヒクヒクと微細な痙攣を繰り返している。 奥からはドロリとした透明な唾液が滴り落ちていた。 網膜に映るその光景が、頭蓋骨の裏側で火花を散らす。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
発泡音。
背後から迫る高周波の羽音が、前方の波の発泡音にかき消されそうになっている。 黄色い消化液の波が、ついに足首の高さにまで到達した。 「私」のサイズの合わない革靴の甲に酸が触れ、繊維越しに皮膚の表面がチリチリと微細な泡を立てて焼かれ始める。 息を吸い込むたび、気化した酸が肺胞を溶かすような痛みが内臓を駆け巡る。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
骨を溶かす酸の臭いと皮膚がただれる痛みがこもる回廊に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




