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――第 083 幕 貪り食う羽音――

 暗がりから、空気を震わせる重低音が這い寄ってくる。 無数の小さな羽が擦れ合い、高密度のゼリー状の大気を削り取る、極めて湿った羽音(ノイズ)。 警官の右足、皮膚をごっそりと剥がされた筋肉の断面から「ポタッ」と滴り落ちた血。 熟れすぎて黒く変色した桃の果肉のような強烈な甘ったるい臭気(ガス)が、四十度の熱風に乗って膨張(ぼうちょう)する。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 飛来(ジジジジジ……)

 明滅する暗赤色の光の中で、親指大の「白い粒」の群れが浮かび上がる。 黄ばんだエナメル質で覆われた、無数の人間の臼歯。 歯の根元から生えた薄く透明な羽が、不規則な速度で空間を叩いている。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 視界が白くチカチカと明滅し、腕が空気を切る。 金髪の男の耳元で、ひときわ大きな羽音が鳴った。 視界が点滅する中、彼は自分自身の右耳を平手で力任せに叩き潰す。

 圧殺(グチュッ)

 彼の手のひらを開くと、潰れた臼歯の残骸から、黄色い消化液(リンパ)と赤黒く変色した古い血が混ざり合い、ドロドロの汚泥となってこぼれ落ちた。 それが耳たぶから首筋へと滴り落ち、彼の派手なスカジャンの襟をベトベトと汚していく。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 甘ったるい臭気(ガス)が鼻腔を塞ぐ。

 足元で、警官の喉から空気が擦れる高い摩擦音が漏れた。 群れの大部分が、彼女の右足――皮膚が剥がれ、赤い筋肉が露出した傷口――に殺到している。 無数の白い歯が、彼女の生肉の表面に直接張り付き、ガリガリと音を立てる。 彼女は両手の爪を深々と手のひらに食い込ませ、自らの傷口を引っ掻く。 虫たちは彼女の指の隙間をすり抜け、皮下組織と血管の隙間へ向かって、ドリル状の口吻をねじ込んでいく。

 侵入(ズズズ……)

 赤く熱した鉄の針が、静脈(じょうみゃく)の中を心臓に向かって逆流して這い上がってくるような異物感(バグ)。 警官の体が、痙攣(けいれん)したように弓なりに反り返る。 彼女の口から、空気が細く漏れる「ヒューッ」という摩擦音だけが響く。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 この異常な羽虫の生態学的構造と、特定の血の匂いに反応するメカニズムを論理的に分析すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った桃の甘ったるい臭気(ガス)と、虫の焦げるタンパク質の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気(ガス)が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

「私」は、完全に炭化(たんか)して肉と癒着(ゆちゃく)した右手で、佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の札を前へ突き出す。 石が「ジュッ」と音を立てる。 虫の群れが飛び込む。 熱に触れた虫たちの透明な羽が焦げ、白いエナメル質の甲殻がパチパチと弾けて破裂する。 彼らは燃えダルマになりながら、警官の血の匂いへ向かって一直線に突っ込んでくる。

 私は、彼女を虫の群れから守るためにこの石の熱を翳しているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、この醜い虫たちが私の悪臭ではなく彼女の血の匂いに群がり、彼女の肉を生きたまま貪り食う様を、熱の壁の安全な内側から薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が本能的な恐怖に支配され、惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが異常であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、力のある側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女を本気で救い出そうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

 視神経がチリチリと焼き切れる。 頭蓋骨を直接削る高周波が鳴り響く。 眼球の裏側で青白い火花が散る。 頭蓋骨の裏側で、数千の不規則な羽音が共鳴し、網膜の砂嵐が真っ白に塗りつぶされていく。 甘ったるい血の匂いと、虫の焦げるタンパク質の悪臭が混ざり合い、「私」の肺の底にヘドロのように沈殿する。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 四十度を超える熱気と甘ったるい悪臭がこもる空間に、ただ粘液の水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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