――第 008 幕 鉄の箱への幽閉――
ホームの床。 湿ったコンクリートの冷気が、這いつくばった両手の掌と膝の骨から、急速に体温を奪い取っていく。 背後の地下通路から迫る、見えないゼリー状の空気の層が背中を押し出す。
サイズの合わない革靴のつま先が、コンクリートの表面をズルリと滑り、私はプラットホームの端へと転がり出た。
霧が、濃い。
雨粒の代わりに、白く濁った水蒸気が視界の底に分厚く沈殿し、足首の皮膚にべっとりと絡みついている。 一歩踏み出そうとするたび、革靴の底にこびりついた地下の腐葉土と泥が、コンクリートの微細な凹凸と擦れ、
「ネチャリ、ネチャァ」
と極めて粘度の高い摩擦音を立てた。 息を吸い込む。 冷たい水蒸気が気管支の壁に張り付き、肺の奥底に細かい砂利が沈んでいく。
遠くの霧の闇を切り裂き、二つの巨大な光源が迫ってきた。
閃光。
夜道を照らす案内灯の波長ではない。 暗い取調室で、開いた眼球に直接数ミリの距離から叩きつけられるライトのような、暴力的な白さだった。
網膜の表面が「チリッ」と音を立てて焼ける。
眼窩の筋肉が引き攣り、上下の瞼を固く閉じ合わせようとする。 だが、強烈な光の粒子は薄い皮膚と毛細血管を容易く貫通し、眼球の裏側で青白い火花となってバチバチと弾け飛ぶ。 眼球の筋肉が硬直を繰り返し、視界のピントがデタラメな方向へ歪んでいく。
左手の指先で、パジャマの第一ボタンのプラスチックを弾く。
カチッ、カチッ。
微小な音が、首の骨を伝う。 ボタンを弾く。カチッ。
あの光は何なのか。 光の屈折率を計算し、接近する物体の質量を論理的に測るべきだろうか。 だが、息を吸い込むたびに気管支にへばりつく水蒸気の冷たさが、脳のシナプスの接続を強制的に切断していく。
冷気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、思考の輪郭が曖昧にぼやけてドロドロに溶け落ちていく。
目の前の分厚い鉄の扉が、ゆっくりと左右に開いた。
「プシュー」
という低い排気音が、空間の気圧を押し出す。 機械の圧縮空気ではない。 巨大な肺胞が、体内で何日も腐らせた古い空気を一気に吐き出すような、重く生臭い呼気だった。
開いた口の暗がりから、古い機械油の酸化した匂いと、青カビ、そして微かな鉄錆の臭いが混ざり合った生温かい風が、首筋の産毛を撫で回す。
私は、右手のポケットの底へ指を沈め、爆発的な熱を発し続ける佐渡赤玉石を握りしめた。
熱傷。
掌の皮膚が黒く炭化し、皮下脂肪が沸騰して細かい気泡が弾ける。 タンパク質と脂が焦げる香ばしい臭いが、鼻腔にへばりついていたカビと機械油の臭いを強引に上書きしていく。 神経の束を直接焼かれる痛覚のパルスが、脳髄の表面を削り取る。
左手でボタンを弾く。カチッ。 サイズの合わない革靴を、一歩、前へ踏み出す。
なぜ、私はこの得体の知れない生臭い箱へ足を踏み入れようとしているのか。 前へ進む覚悟を決めたわけでも、自らの過去を清算するためでもない。 ただ、背後から迫る見えない人混みの圧倒的な質量に押し潰されることに耐えきれず、少しでも自分が呼吸しやすい分厚い膜の内側へと逃げ込みたかっただけなのだ。
自分だけが安全な暗がりに身を隠し、誰の視線からも逃れたいという、極めて卑小で利己的な逃避本能に肉体を明け渡していた。
乗車口の、ホームと車両の隙間。 幅十センチほどの、光の届かない真っ暗な溝。 そこを跨ごうとした瞬間、首の頸椎がカクンと折れ曲がり、眼球が真下の暗黒へと向けられた。
引力。
底なしの暗闇。 そこには線路のバラストも、枕木もない。 奥底から、ドロドロの粘液が幾重にも糸を引いて千切れるような音が這い上がってくる。
その漆黒の底に、無数の「焦点の合わない眼球」がひしめき、一斉にこちらを見上げている。 それはまるで、かつて泥の底に沈めたはずの……いや、違う。 なんだろう。どうでもいい。 この視界の隅でチカチカと明滅する極彩色のノイズに、意味などあるはずがないのだ。
網膜の裏側で、ザラザラとした砂嵐が走る。 足首の骨を真下へ向かって力任せに引っ張る異常なGが、太腿の筋肉を収縮と弛緩の反復へと追い込み、膝の関節がガクガクと音を立ててぶつかり合う。
パジャマのボタンを弾く。カチッ、カチッ。 私は大きく顎の関節をずらし、ゴクリと過剰な唾液を飲み下して耳抜きをした。 靴擦れで裂けた踵の肉から血が滲むのを感じながら、無理やり車内の床へと足を踏み入れる。
背後で、扉が動く。
閉鎖。
金属のシリンダーが噛み合う「ガチャン」という音ではない。 巨大な舌と上顎が、飲み込んだ獲物を逃がさないように隙間なく密着するような、極めて粘度の高い、重い肉の衝突音だった。
私の背中と外界を隔てる、分厚い膜。 ホームに立ち込めていた霧の冷気も、背後から迫っていた見えない人混みの気配も、一瞬にして完全に遮断された。
車内の空気は、ひどく澱み、三十七度前後の生温かさを伴ったゼリーのように、気管支の奥深くへと重く沈み込んでいった。 ただ右手の掌で肉の焦げる悪臭だけが、この閉ざされた空間に充満し始めていた。




