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――第 007 幕 見えない質量の群れ――

 地下通路のコンクリート壁は、長年の湿気を吸い込んで黒ずんでいる。 ひび割れからドロリと滲み出した地下水が、壁面に巨大な黒い染みを作っていた。 空間には、ゼリーのように重く滞留したカビの臭いと、古い鉄錆の臭いが分厚い層を作ってへばりついている。

 天井の蛍光灯は数本おきに黒く死に絶え、生き残った管だけが「ジジッ、ジジッ」と耳の奥の粘膜(ねんまく)を直接引っ掻くような、耳障りな高周波の破裂音を立てている。 光が点滅するたび、壁面に浮き出た水染みが、縫い合わされた巨大な肉の顔のようにグニャリとうねる。

 壁に貼られた色あせた温泉旅館のポスター。 微笑む女性の顔は、過剰な湿気を吸って紙がたわみ、口角が物理的な限界を超えた角度にまで引き攣って裂けていた。 それはまるで、かつて泥の底に沈めたあの……いや、違う。 なんだろう。

 どうでもいい。

 この不快な極彩色の明滅に、意味などあるはずがないのだ。 大きく顎の関節をずらし、過剰な唾液(だえき)をゴクリと飲み下す。

 私は、サイズの合わない革靴をコンクリートの床に引きずるようにして歩く。

 摩擦(ズリッ)

 靴擦れを起こした踵の肉が、一歩踏み出すごとに粗悪な靴下の化学繊維と擦れ、神経をピンセットで直接弾かれるような鋭利な痛みが足首から脳髄へと走る。 左手で、パジャマの裾のほつれた糸を掴む。

 プチッ、プチッ。

 細かい糸くずが指に絡みつく。 糸を引きちぎる。

 プチッ。

 視界には誰もいない。 私の網膜(もうまく)は、前にも後ろにも動く物体の姿を捉えていないはずだ。 だが、私の皮膚と鼓膜は、前後左右を何百人もの「三十七度の生暖かい肉の塊」に囲まれているという物理的な圧迫感を感知している。

 息を吸い込むたび、カビと鉄錆の臭いが肺の底に細かい砂利となって蓄積していく。

 息苦しい。

 この鼻腔を塞ぐ臭気と蛍光灯のノイズが邪魔で、自分がなぜこんな地下道を歩いているのか、次の行動の論理がドロドロに溶け落ちていく。

 右手のポケットの底。 佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の札が、掌の皮膚をチリチリと焦がすほどの高熱を発し続けている。 熱で皮下脂肪が沸騰する香ばしい臭いが、カビの臭いを上書きしていく。 両肩を限界まで内側にすくめ、コンクリートの壁に肩を擦り付けるようにして歩を進める。 パジャマの薄い生地が濡れたコンクリートに擦れ、冷気が脇腹から這い上がる。

 ドンッ。

 衝突(ショック)

 何もない空間で、私の左肩が、極めて硬質な「誰かの肩」に激突した。 鎖骨に鈍い痛みが走る。 よろけて、コンクリートの壁に背中を打ち付けた。

 目の前には、黄色く濁った空気の層があるだけだ。 左手でパジャマの糸を引きちぎりながら、私はその虚空に向かって、首の筋肉を収縮(しゅうしゅく)させて頭を下げた。

「すい、ません……」

 極度に乾燥した喉から、掠れた摩擦音が漏れた。 その音波の振動は、分厚いゼリー状の空気の層を抜け、コンクリートの壁に当たり、反響して私の鼓膜に戻ってきた。

『……イ、マセン……』

 誰もいない地下通路に、私の吐き出した摩擦音だけが、幾重にもエコーとなって這い回る。 対象のいない虚空へ向かって、何度も頭を下げる。 左手で糸を引きちぎる。

 プチッ。

 頭を下げる。 私は、決して礼儀正しさや他者への配慮から謝罪しているわけではない。 こんな得体の知れない空間で、自分はあなたたちにとって無害でちっぽけな存在なのだとアピールし、ただ見逃してもらいたい。

 自分がこれ以上追い詰められないために、道化を演じてでも身の安全を確保したいという、極めて卑小で利己的な自己防衛の反射だった。

 視界の端が白くチカチカと点滅を始める。 眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 舌の裏側に、微細な毛細血管が破裂したような鉄錆の味がドロリと広がった。

 フゥーッ。

 背後から、首筋に直接、生暖かい呼気(こき)が吹き付けられた。 ただの隙間風ではない。 首筋の産毛が逆立ち、毛穴が一斉に収縮(しゅうしゅく)する。

 三十七度前後の、極めて具体的な体温と湿度を持った風。 古いタバコのヤニと、胃液の混ざったような生臭い排泄物の臭気が、鼻の粘膜(ねんまく)にべっとりと張り付く。

 ジジジッという高周波ノイズが頭蓋骨を削る。

 まともな思考が組み上がらない。 私は、右手の親指の爪で人差し指の腹を強く引っ掻きながら、左手で首筋を乱暴に払った。 ジワリと血が滲む。

 首筋に触れた手には、地下特有のカビ臭い湿気と、ヌルリとした極めて粘度の高い水滴がまとわりついているだけだった。 ズボンの生地で執拗にその湿り気を拭う。

 ズリッ、ズリッ。

 布が皮膚を擦る鈍い音。

 見えない質量に、四方から押し潰される。 息を吸うための胸郭の隙間が奪われていく。

 私は、剥がれかけた踵の鋭利な痛みを引きずりながら、パジャマに染み込んだ泥の重さを抱え、薄明かりの差すホームへの階段へと、四つん這いになるようにして駆け上がった。 ここで立ち止まって不可視の恐怖と向き合う覚悟などない。 ただ、少しでも自分が呼吸しやすい空間へ逃げ込みたいという本能に、肉体を明け渡していた。 革靴のつま先がコンクリートの段差を削る。

 ガリッ、ガリッ。

 右手のポケットの中で石が熱を放つ。 糸を引きちぎる。

 プチッ。

 ただ、その意味のない反復だけが、冷たい地下通路の空気を震わせていた。


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