――第 006 幕 錆びた改札――
待合室の空間から一歩外へ踏み出す。
刃物のように冷え切った空気が、開いた口から気管支を直接突き刺した。
ヒクッと肺胞が収縮し、微細な咳の反射が起きる。 足元のコンクリートは黒ずみ、雨水と靴底の泥が混ざった粘り気のある汚れが不均一に広がっている。
サイズの合わない革靴が、その泥を踏みしめる。
粘着。
一歩歩くごとに、擦り剥けた踵の肉が粗悪な靴下の化学繊維と擦れ、「ズリッ」と鈍い摩擦音を立てた。 神経を直接ピンセットで弾かれるような鋭利な痛覚が、足首から大腿部へと走る。
雨粒がトタン屋根を叩く轟音が、背後でくぐもる。 代わりに、前方から低く唸るような風切り音が這い上がってきた。
ゴォォォォォ。
地下へと続く階段の奥底から、生温かくて湿った空気の塊が絶え間なく吹き上げてきている。 視界の先に、赤黒く酸化した鉄の柵が口を開けていた。
無人駅の、錆びた改札口。
自動改札の機械は存在せず、切符を切るための金属の台座だけが、冷たい雨に打たれてドス黒く濡れそぼっている。 空間に、古い鉄が酸化する臭いと、カビたコンクリートの匂いがゼリーのように滞留している。
息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
背後から、ひどく湿った足音が三つ、等間隔のリズムで追従してくる。
グチュ、グチュ。
泥と雨水をたっぷり吸い込んだ靴底が、コンクリートを削る音。 紺色のスーツを着た女が、乱れた髪から冷たい水滴を滴らせながら、自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎっている。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ヨレたカーディガンを着た男の銀縁眼鏡は完全に白濁し、彼は虚空に向かって何かを早口で呟き続けている。
「……フラクタル、自己相似性……」
彼のひび割れた唇から、意味を持たない音素が唾液の泡と共に吐き出される。 スカジャンを着た金髪の男の、古い汗とタバコのヤニの臭いが、雨の冷気と混ざり合って鼻腔を塞ぐ。
チッ、チッ。
舌打ちの湿った音が、雨音の隙間に粘り気を持ってまとわりつく。
なぜ、私たちは誰一人言葉を交わすことなく、この錆びた改札へ向かって歩き続けているのか。 この異常な集団行動の目的と、空間の構造を論理的に分析すべきなのだろう。
だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく鉄錆の臭いと古い汗の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 視界の端が白くチカチカと明滅する。
眼球の裏側で青白い火花が弾け、眼窩の筋肉が不規則に引き攣る。 ボタンを弾く。
カチッ。
大きく顎をずらし、耳抜きをする。 だが、鼓膜に張り付いた分厚い水圧のような膜は剥がれない。
開いた口から入り込む冷気が、水飴のように重く、気管支が軋む。
改札の鉄の柵に、指先が触れる。
冷涼。
絶対零度の冷気が、指先から静脈を逆流して脳髄を直接凍らせる。 鉄の表面には、赤茶けた錆と共に、誰かの黄色い皮脂がべっとりとこびりついている。
触れた指先から、他人の生温かい体温が伝わってくるような錯覚。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 「私」は大きく顎をずらし、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。
私は、彼らを導いてこの不気味な改札を抜けようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。
私はただ、彼らがこの不潔な雨と泥の中で、寒さと恐怖に顔を引き攣らせて無様に足を引きずる様を、背中で感じて安堵していたかっただけだ。 他人が惨めに濡れそぼり、自分以上に壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。
彼らが哀れであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、先を歩く側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、振り返って彼らに声をかけようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
右手のポケットの底。 佐渡赤玉石が、氷塊のように冷え切り、皮膚から急速に体温を奪っている。
この冷徹な物理的痛覚と冷気に没頭していれば、自分が罪深い逃亡者ではなく、不条理な環境に耐える無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
サイズの合わない革靴が、錆びた改札を通り抜け、暗い地下通路へと続く階段の踊り場へと足を踏み入れる。 鉄錆の臭いと泥の発酵臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、重く湿った足音だけが充満し続けていた。




