――第 005 幕 深夜の無人駅――
泥に塗れた足が、平坦なコンクリートの床を踏む。 サイズの合わない革靴の底にこびりついた腐葉土と粘土が、床面と擦れて、ひどく湿った摩擦音を立てた。
粘着。
深夜二時四十分。 寂れた私鉄の待合室。 分厚いトタン屋根が雨を遮る。
これまで鼓膜を直接打っていた雨の轟音が、分厚い水槽のガラスを通り抜けたような、くぐもった振動へと変わる。 壁の隅に蜘蛛の巣はない。 床のコンクリートにはタバコの吸い殻一つ落ちていない。
パジャマから立ち上る泥の発酵臭と、側溝から漂うアンモニア臭が、分厚いゼリーのような層を作って鼻腔の粘膜にべったりと張り付く。 息を吸い込むたび、気管支が細かく引き攣り、肺の底に細かい砂利が蓄積していく。
チカ、……チカ。
天井に張り付いた一本の蛍光灯が、不規則な周期で光を落とす。 視界の端が白く飛び、網膜の裏側に黒い斑点がこびりつく。 光が途切れるたびに、頭の中の単語が一つずつ削り落とされていく。
壁に貼られた色あせた観光ポスター。 温泉に浸かる女性モデルの笑顔。 その両眼の部分には赤く錆びた画鋲が深く突き刺さり、光が点滅するたびに、黒い涙のようにサビの影が下へと伸びる。
それはまるで、泥の底に沈んだ見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう。 どうでもいい。 この極彩色の明滅の奥にある不潔な影に、意味などないのだ。
大きく顎の関節をずらし、ゴクリと過剰な唾液を飲み下す。
なぜ、私はこの寂れた無人駅へと逃げ込んだのだろうか。 追跡者を論理的にまくためのルートを計算しているのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくアンモニアの悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
臭気が邪魔だ。
気管が痙攣し、次の行動を起こすための論理がドロドロに溶け落ちていく。 私は、生存という崇高な目的のためにここへ来たわけではない。
ただ、あの不潔な病室で自らの過去を暴き立てられ、真実と向き合うことを強要される苦痛から逃れ、自分だけは安全な暗がりに身を潜めていたいという、極めて卑小で利己的な逃避本能に従っただけだった。
壁際に設置されたFRP樹脂の青色のベンチ。 その端に、黒いビニール傘が横たわっている。 半開きの骨組みが、濡れた布地を内側から突き上げている。
視界の端にザラザラとした砂嵐が走り、眼球の奥で微小な火花が弾ける。 親指の爪で人差し指の腹を強く引っ掻く。
ジワリと血が滲む。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。 コンクリートの床に直接尻を下ろした。 パジャマの生地に染み込んだ泥水が床に広がる。
コンクリートの冷気が、背骨の髄液を直接凍らせるように這い上がり、太腿の筋肉がビクンと痙攣する。 浅い呼吸を繰り返す。
ブゥゥゥゥン。
背後から、低い唸り声が響いた。 自動販売機のコンプレッサーの駆動音。 腹の底の臓器を直接揺らすような、重く粘り気のある重低音。
自販機のアクリルパネルには、無数の小さな羽虫が群がり、ジジジジと不規則な羽音を立ててぶつかっている。 パネル全体が白く発光し、「つめたい」という文字の形に抜かれた光が網膜を焼く。 三十個近い商品のボタンには、一つ残らず赤い「売切」のランプが点灯している。
左腕を伸ばし、自販機の取り出し口の黒い穴に指を突っ込む。 釣り銭の硬貨を探す。 喉の渇きを癒すための論理的行動ではない。
ただ、暗い穴を探るという無意味な反復作業に没頭することで、自分が犯した罪の輪郭を一時的でも曖昧に塗り潰したかったのだ。 だが、指先に触れたのは、冷たい金属ではなかった。
粘着。
水分を含んで膨張したガム。 あるいは、体液を撒き散らして死んだ羽虫の死骸の塊。 生温かい物体が、左手の親指と人差し指の爪の間に、びっしりと入り込む。
手を引き抜く。 胃壁が雑巾を力任せに絞るように激しく収縮し、舌の裏側に酸っぱい味が広がる。 汚れた指先をパジャマの生地に擦り付ける。
生温かさが皮膚の繊維に絡みつく。
ズリッ、ズリッ。
指を布に擦り付ける。
ズリッ。
ただ指を布に擦り付ける微小な摩擦音が、待合室の冷気の中で鳴り続ける。
ジジジジジジ……。
切れかけの蛍光灯が鳴り続ける。 高周波の波が、脳の血管を直接削るように響き、三半規管の中のリンパ液をデタラメにかき回す。 鼓膜の奥で、ジジジという振動が、物理的な圧力を持って音素の形を成す。
『逃ゲロ』
右手のポケットの底。 佐渡赤玉石の札が、絶対零度の氷塊となって、掌の血管から急速に熱を奪い去っていく。 背後の雨の轟音と、目の前の明滅する青白い光。
大きく顎をずらし、耳抜きをする。 「私」は、ズボンの縫い目をなぞりながら、ただ浅い呼吸を反復した。




