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――第 004 幕 三人の捕食者――

 斜めに叩きつける無数の冷たい雨粒が、アスファルトの表面を物理的に叩き割っている。 パトカーの回転灯が放つドス黒い赤い光が、水たまりの表面で油膜のように乱反射し、地面に這いつくばる巨大な血管のようにチカチカと明滅を繰り返している。 冷え切った空気に、アスファルトが濡れた埃っぽい匂いと、車の排気ガスの焦げたような臭いが滞留している。 息を吸い込むたびに、気管支が細かく引き攣り、肺の奥に細かい砂利が蓄積していく。

 紺色のパンツスーツを着た女が、水たまりの前に立っている。 右手で、安物のオイルライターのヤスリを回し続ける。

 摩擦(カチリ)。摩擦(カチリ)。

 火はつかない。 親指の腹がヤスリの金属と擦れ、削れた皮膚の隙間から微細な血が滲む。 血の鉄錆の匂いが排気ガスの臭いに混ざる。 雨の轟音の隙間で、その小さな金属音が鼓膜を直接引っ掻き回す。

 なぜ、こんな雨の中で濡れながら執拗に火を点けようとしているのか。 追跡対象の足取りを論理的にプロファイリングすべきではないか。 だが、鼻腔の奥にへばりつく排気ガスの焦げた臭気が思考の結線を細かく切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 彼女は法と正義のためにあの男を追っているわけではない。 ただ、自らの肉体に染み付いた得体の知れない不潔さから目を背け、他人の醜い罪を物理的に暴き立てることで、自分だけは安全で清廉な側にいるのだという自己欺瞞にすがりつきたいだけだった。

 ヤスリを弾く。カチリ。 ただの卑小な逃避の反復動作。

 *

 病棟三階の、医局。 天井の蛍光灯は完全に落ち、横に並んだ三台のPCモニターが放つ青白い光だけが、空間を四角く切り取っている。 モニターの裏側から、冷却ファンの「ブゥゥゥン」という低い重低音が絶え間なく響き、リノリウムの床を微細に震わせて脛の骨を直接揺らす。 部屋には、消毒用エタノールの揮発臭(きはつしゅう)と、古びた書類の埃っぽい臭いがゼリーのように淀んでいる。

 痩せ型の男が、雨水を吸って重くなった白衣の袖を乱暴に引っ張る。

 剥離(ベチャリ)。

 濡れた化学繊維が、床に落ちて重く湿った水音を立てる。 彼はヨレたシャツの上から、毛玉だらけのカーディガンに腕を通し、ポケットの奥から銀色のボイスレコーダーを引きずり出した。 体温の低い指先が、プラスチックの筐体の冷たさを撫で回す。

 銀縁眼鏡のレンズが、彼の吐き出す荒い呼気と部屋の湿気によって、完全に白濁していた。 指先でレンズを押し上げる。 皮脂がガラス面にベッタリと伸びて光が乱反射し、網膜(もうまく)にチカチカと白飛びを引き起こす。

 この光の明滅が、脳の処理速度を著しく低下させる。 意味のある考察がドロリと溶けていく。

 電子音(ピッ)。

 録音ボタンを押し込む。 硬いプラスチックが沈み込み、小さな赤いランプが点灯した。

「検体A、逃走。対象の、移行」

 早口で吹き込む彼の口角が、顔の筋肉が痙攣(けいれん)したように持ち上がり、上顎の歯を剥き出しにする。 口の端から透明な唾液(だえき)の泡が吹き出し、「プツン」と弾けた。 彼の網膜の裏側に、追跡対象という文字の配列が、極彩色の光の粒となってこびりついて離れない。

 崇高な真理の探求などではない。 ただ、生々しい肉体や他者の痛みをすべて無機質なデータへと変換し、自分の人間としての不完全さを隠蔽したいという、歪で汚れたエゴの暴走だった。

 左手でカーディガンのほつれた糸を無意識に引きちぎり続ける。

 プチッ、プチッ。

 糸くずが指に絡みつく。

 *

 寂れた駅前の路地裏。 自動販売機の「つめたい」という白いアクリルパネルの光に、無数の小さな羽虫が群がり、ジジジジと不規則な羽音を立ててぶつかっている。 コンクリートの壁は湿気を帯びて黒ずみ、青いカビの匂いと、側溝から溢れ出したドブ水の発酵臭が、生暖かい気体の層となって鼻腔の粘膜(ねんまく)にへばりつく。

 湿った壁に背を預けた金髪の男が、手の中で金属片を弄んでいる。

 刃鳴(チャキッ)。

 バタフライナイフの鋼の刃が飛び出し、湿った空気を切る。 彼はその鋭利な刃先で、自分の親指の爪の間に詰まった黒い垢を、ガリガリと削り落としていた。 濡れたコンクリートの匂いに混じって、微かな鉄錆の臭いが彼の鼻の粘膜に刺さる。 あの赤い石札が発していた、肉の焦げる熱の臭い。

 男の首筋から背骨に沿って、毛穴が一斉に収縮(しゅうしゅく)し、ドロリとした冷たい体液(リンパ)が分泌される。 怒りか。いや、違う。 自分より圧倒的な存在の前にひれ伏したという惨めな記憶を塗り潰すため、刃を振り回して他者を痛めつけたいという、純粋な怯えからの自己防衛にすぎない。

 だが、鼻腔を塞ぐドブ水の悪臭が邪魔だ。 気管が細かく痙攣(けいれん)し、思考の輪郭が曖昧にぼやけていく。

「チッ」

 彼は舌打ちをして、派手なスカジャンの襟を立てる。 胃壁が力任せに雑巾を絞るように激しく波打ち、口の中に酸っぱい唾液がドロリと溢れ出した。 彼はそれを足元の水たまりへ向かって吐き捨てる。 右手でナイフの柄を何度も開閉する。

 パチン、パチン。

 鋼がぶつかる微小な振動が腕の骨を伝う。

 パトカーの赤色灯の下で。 青白いモニターの前で。 自販機の明滅の陰で。

 摩擦(カチリ)。 電子音(ピッ)。 金属音(パチン)。

 三つの乾いた機械音が、土砂降りの雨の轟音を切り裂き、鼓膜の裏側で耳障りな和音となって反響する。 高密度の湿度に沈む暗闇の中。 三つの異なる靴底が、泥水を跳ね上げながら、一本の錆びた線路へ向かって、寸分違わぬ歩幅で進み始めていた。


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