――第 003 幕 泥の洗礼――
光を捉える機能が、眼球の表面から物理的に削り落とされた。 斜面を、転がり落ちている。 足裏に硬い地面の反発はない。
ただ、足首まで絡みつく高粘度の泥が、サイズの合わない革靴を容赦なく吸い込もうと蠕動する。 一歩踏み出すたびに、ズボッ、ネチャァと、泥が靴底に張り付く。 引き剥がすために太腿の筋力が強引に引き出され、膝の関節がゴリッと鳴る。
空から叩きつけられる無数の冷たい水塊が、薄いパジャマの生地を貫通し、皮膚を直接殴打する。 凍えるような冷気が表皮から侵入し、内臓の熱を急速に奪っていく。 漂うのは雨の匂いではない。
斜面を覆う腐葉土の発酵臭と、側溝から溢れ出した下水のアンモニア臭が、生暖かい気体となって鼻腔にへばりつく。
なぜ、私はこの泥の斜面を転げ落ちているのだろうか。 この足を引き抜き、上を目指すべきなのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥を刺す強烈なアンモニアの臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断する。
臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、次の行動を起こすための論理がドロドロに溶け落ちていく。 足が、ぬかるみの中で空回りした。 顔面から泥の海へと突っ込む。
半開きになった口の中に、泥水がなだれ込んだ。 奥歯の隙間で微細な砂利が砕ける振動が、下顎骨から頭蓋骨の裏側へと直接響く。 舌の裏側に、泥の腐った味と、切れた粘膜から滲み出た血の鉄錆の味が、ドロリと広がる。
吐き出そうと咳き込む。
肺から押し出された空気は泥の質量に阻まれ、喉の奥でゴボゴボと水音を立てる。 冷たい泥水が、右の耳の穴へ流れ込む。 鼓膜に重い泥が蓋をし、三半規管のリンパ液がデタラメな方向へ波打つ。
地面がどちらで、空がどちらなのか。 視界の水平線が真横にひしゃげ、ただ「濡れて、重いもの」に全身を押し潰されているという物理的な圧迫感だけがのしかかる。 右手で、濡れたパジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が、顎の骨を伝う。 睫毛に絡みついた泥水が、眼球の表面を覆う。 泥に混ざった油分が微小な光を屈折させ、視界全体が油膜のような極彩色に歪んでチカチカと明滅する。
虹色のノイズが、視神経を焼く。
それはまるで、雨の日にアスファルトにこぼれたガソリンの染みが、無数の羽虫の羽ばたきのように輝いている……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この美しい極彩色のノイズに、意味などないのだ。 背後の遠くで、サイレンのような高周波が鳴っている。 警察か、あるいは救急か。
助けを呼ぶべきなのだろう。 立ち上がり、この泥の中で声を上げるのが、生存を望む生物の正常な反射だ。 だが、右手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。
ジワリと血が滲む。
靴の中に入り込んだ小石が踵の肉を抉る痛覚と、濡れて重くなったパジャマの布地が胸郭に張り付く物理的な重さ。 そして、鼻腔を塞ぐ下水の臭い。 それらのノイズが重い鎖となって肉体を泥の底へ縫い付ける。
立ち上がりたくなかった。
あの不潔な病室で、自分の過去を暴かれ、正しさを要求されるくらいなら、この泥の中に完全に沈んでしまいたかった。 泥と同化し、自分の輪郭をなくしてしまえば、誰にも追及されずに済む。 そんな醜く卑小な逃避の欲求が、四肢から立ち上がるためのエネルギーを根こそぎ奪い取っていく。
サイレンの音は、鼓膜をすり抜けて泥の中へ消えていく。 ボタンを弾く。
カチッ。
右手のポケットの中で、冷気が爆発した。 握りしめていた佐渡赤玉石の札が、絶対零度の氷塊のように急激に冷え切ったのだ。
その暴力的な冷気が、掌の血管から神経を逆流し、耳の奥で暴れていた血流の脈動を強引に凍りつかせる。 暴走していた肺が、急速な冷却によって引きつり、ヒューッ、という摩擦音を気管支から漏らす。 過呼吸のピストン運動が、強引な物理干渉によって停止する。
静かになった。
右耳の泥の蓋と、極端に低下した心拍のせいで、鼓膜を殴っていた雨音が少しだけ遠のく。 ボタンを弾く手が止まる。 その時、雨の轟音の底から、別の音が響いてきた。
風の音ではない。 足元の泥の奥深く、地殻の底から這い上がるような、極めて低い重低音。
ゴォォォォォォ。
胃壁が、その重低音と完全に共振し、激しく収縮する。 口の中に溜まっていた泥と、喉の奥で煮え滾る胆汁が混ざり合い、胃袋が力任せに捻り上げられる。
泥濘に向かって、胃の内容物をぶちまけた。
自分の体から出た未消化の液体が、雨に叩かれて周囲の泥と同化していく。 吐瀉物の強烈な酸味と、腐った土の匂いが混ざり合う。
だが、腐葉土と排泄物の混ざったその臭気を肺の底まで吸い込んだ瞬間。 全身の筋肉の強張りが、スッと抜け落ちた。
細胞の奥底が、体温に近い、生温かい泥の熱を伴って、ドロリと弛緩したのだ。 泥水に顔を半分沈めたまま、口の端から唾液を垂らし、暗闇の中で音もなく口角を吊り上げた。




