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――第 002 幕 ガラス越しの膜――

 廊下の長尺シートは、ワックスが不均一に剥げ落ちて微かに黄ばんでいる。 空間には、消毒用エタノールの鼻を刺す揮発臭(きはつしゅう)と、古びたモップが放つ生乾きのカビの臭いが、分厚いゼリーのような層を作って滞留している。

 天井の空調の吹き出し口からは、ブゥゥゥンという低い唸り声と共に、ホコリを含んだ冷気が絶え間なく吐き出され続けている。 息を吸い込むたび、その冷気が気管支(きかんし)にべったりと張り付き、脳髄へと続く血管を凍らせていく。

「私」は、壁の冷たいタイルに左肩を擦り付けるようにして、その空間を這うように進む。 タイルの目地に引っかかったパジャマの繊維が、ズリッ、ズリッと音を立てて引き攣れる。

 なぜ、私はここを這いずっているのか。 病室に戻れば、あの白い服を着た人間たちがまた来る。 いや、違う。

 背後の空間から、決壊した水圧の重低音が床を伝って迫ってくるからだ。 足の裏が長尺シートを踏みしめるたび、

「ヌチャッ」

 と粘り気のある水音が鳴る。 足指の間に微細なホコリと水分が絡みつき、足首から膝にかけての筋肉が硬直(こうちょく)する。

 右手の人差し指で、親指の爪の端をカリカリと弾く。

 カリッ、カリッ。

 爪が削れる微小な振動が骨を伝う。 天井の蛍光灯が、チカチカと不規則な周期で光を落とす。

 視界の端が白く飛び、網膜(もうまく)の裏側に黒い斑点がこびりつく。 光が途切れるたびに、頭の中の単語が一つずつ削り落とされていく。 気管支がヒクッと引き攣る。

 口内に過剰な唾液(だえき)が分泌され、鉄錆の味が舌の裏側にべっとりと広がる。 大きく顎の関節をずらし、

 ゴクリ、

 とその液体を飲み下す。 喉の粘膜(ねんまく)がヒリヒリと焼け、食道が重く収縮(しゅうしゅく)する。 胃の底に泥のような塊が落ちていく感覚。

 廊下の突き当たり。分厚いガラスの嵌まったステンレスの扉。 上下の瞼が重くぶつかり合う。睫毛の間に溜まった目脂が擦れる。

 ガラスの表面に、自分の顔が映っている。 落ち窪んだ眼窩(がんか)と、無精髭の生えた頬。 その輪郭が、蛍光灯の明滅に合わせて、グニャリと水面のように波打つ。

 水面の下には、無数の黒い魚が口を開けて群がっている。 眼球の奥で微小な火花が弾け、視界全体にザラザラとした砂嵐のノイズが走る。 親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。

 ジワリと滲んだ血の温度が、空調の冷気で急速に奪われていく。 傷口をパジャマの布地に擦りつける。

 ズリッ。

 左手の指先が、冷たいステンレスのドアハンドルに食い込んでいた。 金属の表面に、掌から滲み出た水分がべったりと張り付く。

 ヌルリ。

 金属と皮膚の間で、極めて粘度の高い摩擦が起きる。 腕の筋繊維が痙攣(けいれん)し、ハンドルの冷たさが手首の静脈を遡って心臓へと達する。

 開けるべきか。ドアの向こうは、完全な暗闇だ。 だが、この淀んだエタノールのゼリーの中に留まれば、背後から来る濁流に呑み込まれる。

 私は、失われた真実を求めてこの扉を開けるわけではない。 誰かを助けに行くという崇高な目的など、微塵もない。

 ただ、あの病室の不潔な記憶と、自分自身の吐き出した呼気をもう一度肺に吸い込むことに耐えきれず、少しでも呼吸が楽になる物理的な逃避路を求めているだけだった。 自分の罪悪感を、この冷たいステンレスの向こう側に置き去りにしたいという、極めて卑小で利己的な衝動。

 パジャマの裾のほつれた糸を、右手で無意識に引っ張る。

 プチッ、

 と微かな音が鳴り、指の隙間に細かい糸くずが絡みつく。 親指と人差し指で、その糸くずを丸める。

 空調のブゥゥゥンという低い唸りが、思考の輪郭をドロドロに溶かしていく。

 エタノールの臭いが邪魔だ。 まともな論理が組み立てられないまま、ただ筋肉の反射として、ドアハンドルに体重をかけた。


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