――第 001 幕 壁の向こうの水音――
大きく顎の関節をずらし、何度も過剰な唾液を飲み下す。
ゴクリ、ゴクリ。
水圧に塞がれた耳抜きをしなければ、頭蓋骨が内側から破裂する。
ゴォォォォォ。
水音の振動が、三半規管のリンパ液をデタラメに揺さぶる。 部屋の照明は落ちている。 廊下の非常灯が、ドアの鉄格子の隙間を抜けて、ドス黒い赤い筋となって床の長尺シートに落ちていた。
ワックスが剥げ、黒ずんだ床の上に伸びるその赤い光の帯が、水底の揺らぎのようにグニャリと形を崩す。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
ナースコールを押すプラスチックのボタンが、枕元にある。 指はピクリとも動かない。 あの白い服を着た人間たちは、網膜にペンライトの強烈な光を突き刺し、ノートに黒いインクの染みをつける。
右手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。
ジワリと血が滲む。 微かな鉄錆の味が口内に広がり、揮発するエタノールの臭いと混ざり合う。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
水が、来る。
息を吸い込む。 酸素ではない。 重い泥水が気管支に流れ込んでくるような、圧倒的な質量の気体。
気管支がヒクッと痙攣し、湿った土の匂いと、微かな鉄錆の臭いが鼻腔の粘膜にべっとりと張り付く。
なぜ私はこの薄暗い病室で、迫り来る水音に怯えながら立ち尽くしているのか。 ここから逃げ出すための安全なルートを論理的に計算すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくエタノールの揮発臭と鉄錆の臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。
視界の端がチカチカと白く明滅する。 眼球の裏側で微小な火花が弾け、眼窩の筋肉が引き攣る。 垂れ下がった靴紐の、黒く汚れた先端の繊維にだけピントが固定され、それ以外の空間が完全に暗転する。
靴紐の端を踏みつけ、かかとの布地を乱暴に踏み潰して全体重をかける。
剥離。
かかとの靴擦れの跡が裂けた。 靴下の化学繊維が傷口の肉に張り付いて、乾いた摩擦音を立てる。 足を動かすたびに、血と体液で固まった繊維が傷口を強引に引き剥がす。
神経を直接ピンセットで弾かれるような鋭利な痛みが、足首から脳髄へと走る。
濁流の重低音が、足の裏から脛の骨を伝わってくる。 パジャマの裾のほつれた糸を、左手で掴む。
プチッ、プチッ。
糸を引きちぎる微細な摩擦音が、重低音の隙間で鳴り続ける。 ちぎっては捨て、ちぎっては捨てる。 指先に絡みつく細かい糸くず。
赤く光る鉄格子の隙間を見据え、病室のドアノブに手をかけた。 金属の冷たさが、発熱した掌の体温を急速に吸い取っていく。 手のひらから滲み出た水分が金属と擦れ、ヌルリと滑る。
ズリッ、ズリッ。
何度もドアノブを擦る。
私は、この得体の知れない水音の正体を確かめ、誰かに警告するために重い扉を押し開けようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、あの白い服を着た人間たちに網膜を焼かれ、自らの不潔な過去を暴き立てられるこの密室の苦痛から逃れたいだけなのだ。
外が泥の濁流であろうと構わない。 他人がどうなろうと、自分だけはこの追及から逃げ延びて、安全な暗がりに身を潜めていたい。
そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この冷たいドアノブを回すエネルギーを捻り出しているに過ぎない。 大きくずれた顎を元に戻し、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。
そして、重い鉄の扉を押し開けた。




