――第 009 幕 不協和のベル――
車内の空気は、ひどく澱み、三十七度前後の生温かいゼリーのように重く気管支にのしかかる。 古いベルベットの座席から漂う、何十年も溜め込まれたような埃の臭い。 息を吸い込むたび、微かな鉄の錆びた味が混ざり、舌の裏側にザラザラと張り付いてくる。
大きく顎の関節をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。
天井に等間隔で並ぶ青白い蛍光灯が、不規則な周期で光を落としている。
ジジッ。
羽虫が電撃で焼かれるような微細な破裂音が鳴るたび、光が途切れる。 その一瞬の暗転が、網膜の裏側に黒い斑点として焼き付き、視界の端を白く明滅させる。 「私」は車両の隅、連結部に最も近い座席に、背中を深く押し付けていた。
パジャマの薄い生地が、生温かいベルベットの繊維と擦れる。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを弾く。 カチッ、カチッ。 プラスチックの音が微かに骨を伝う。
右手の指先は、パジャマのポケットの底に沈んだままだ。 硬く冷たい佐渡赤玉石の札。 その鋭角な縁を、掌の肉に深く食い込ませる。
圧迫。
皮膚が裂ける寸前の鋭利な痛覚だけが、肋骨の裏側で暴れる心拍の震動を、わずかに上書きしてくれていた。 なぜ、私はこんな石を握りしめているのか。 あの病室から持ってきたこれは、何かの証明だったはずだ。
だが、息を吸い込むたびに舌に張り付く鉄錆の味が邪魔だ。 脳のシナプスの接続が細かく切断され、まともな論理がドロドロに溶け落ちていく。 ボタンを弾く。カチッ。
周囲の座席には、ぽつりぽつりと数人の乗客が腰掛けている。 呼吸の気配はない。 全員が深く首を垂れているか、黒いコールタールを塗りたくったような窓の外へ顔を向けたまま、ピクリとも動かない。
衣服の化学繊維が擦れる音もしない。 新聞のページをめくる摩擦音もない。 彼らの胸郭が上下する微かな空気の揺れすら、この密閉空間には存在しなかった。 ただそこに配置されているだけの、三十七度の微熱を持った肉の塊。
深夜二時五十七分。 唐突に、発車を知らせるベルが鳴り響いた。
振動。
「プルルル」という、聞き慣れたはずの電子音。 しかし、その音程は一秒経過するごとに、半音ずつ、ずるずると波長を歪ませてズレていく。 喉の奥を錆びた刃物でゆっくりと掻き切られた女が、肺の底から残りの空気をすべて絞り出して上げる濁った摩擦音。
それはまるで、泥の底に沈めたはずの記憶が……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 このひしゃげた波長の奥にある不潔な連想に、意味などないのだ。
極めて高い周波数の波が、空間のゼリー状の空気を切り裂いて殺到する。
「私」は両手で強く両耳を塞いだ。 右手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲む。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 音波は、外の空気を伝わっているのではない。 頭蓋骨の骨伝導を経由して、脳髄の奥底へ直接ねじ込まれてくる。
共振。
奥歯の銀の詰め物が、そのノイズと同調した。 歯根の毛細血管が弾けるような痺れが、下顎の骨から顔面全体へと広がっていく。 その高周波の波に晒され、眼球が眼窩の中で小刻みに震え始めた。
視界に映る青白い車内の輪郭が、二重、三重にブレて、分厚い水槽の底から見上げているようにグニャリと揺らぐ。 同時に、急激な気圧の変化が三半規管のリンパ液をかき回す。 鼓膜が、内側から外側へ向かって限界まで強く引っ張られる。 耳の奥底に、細い針を突き刺されたような鋭利な痛みが走る。
大きく顎をずらし、何度も唾液を飲み下す。
ゴクリ、ゴクリ。
だが、鼓膜に張り付いた分厚い膜は剥がれない。 開いた口から入り込む空気が、水飴のように重く、気管支が軋む。 ボタンを弾く。カチッ。
『――次は、△※〇×――』
天井の古びたスピーカーから、駆け込み乗車を知らせるアナウンスが流れた。 乾燥した砂利を巨大なミキサーで粉砕するような、ジャリジャリとした粗い摩擦音の羅列。 そのノイズが、高周波のベルの波長と絡み合い、脳細胞の表面を直接削り取っていく。
「私」は右手を耳から離した。 そして、自分自身の太腿を、爪が白く変色するほどの力で強く抓った。
激痛。
ズキリと走る、皮膚を引き裂くような痛覚。 その鋭利な感覚だけが、脳を茹で上げるような音波の奔流からピントをずらす。 太腿の肉を抉るように、親指と人差し指の先端に限界まで力を込め続ける。
プチッ。
パジャマの粗悪な生地越しに、真皮が破れる微細な振動。 生暖かい液体が滲み出してくる感触が、指の腹に直接伝わる。
私は、この致死的なノイズから精神を守るために自傷しているのではない。 頭蓋骨を削るこの理不尽な痛みと、太腿の肉を抉る痛みを物理的に相殺することで、自分が犯した罪の清算を強引に終わらせた気になりたかったのだ。 自らの肉体を痛めつけていれば、あの病室で暴かれた醜い過去から目を背け、これ以上誰からも追及されずに済むという、極めて卑小で利己的な自己正当化だった。
爪を食い込ませる。
プチッ。
プツン。
唐突に、ベルの音とアナウンスが同時に途切れた。 後に残されたのは、空気の摩擦すら感知できない完全な静寂。 しかし、耳の奥では「キーン」という強烈な高周波の耳鳴りだけが、頭蓋骨の内側にへばりついて鳴り続けている。 鼓膜を外側から圧迫するその「無音」の質量。
耳の奥深く。 圧力で切れた毛細血管から、生温かく、微かに鉄錆の味がする液体が、喉の奥へとドロリと流れ込んできた。 大きく顎をずらし、その液体を飲み下す。
ゴクリ。
左手でボタンを弾く。カチッ。 三十七度の微熱がこもる空間に、ただプラスチックの反復音だけが響き続けていた。




