――第 010 幕 動き出す密室――
重く、生臭い風が足元を這い回る。
プシュー。
肥大化した巨大な肺胞が、溜め込んだ古い呼気を一気に吐き出すような、極めて粘り気のある排気音が鳴った。 ゼリー状に澱んだ車内の空気に、古い機械油の酸化した臭いと、放置された生肉の発酵臭がドロリと混ざり合い、鼻の奥の粘膜にべっとりと張り付く。
息を吸い込むたび、気管支が細かく引き攣り、肺の底に細かい砂利が沈殿していく。
直後、足元の床が大きく波打った。
車輪が鉄のレールを擦る軽快な摩擦音は、どこにもない。 巨大な腸管の奥底を、重量のある肉塊がドロリと滑り落ちていくような、重く湿った横揺れ。 床下から響く唸り声が、脛の骨を伝って胃の底の未消化物を直接揺さぶる。
列車が、動く。
前へ進む推進力ではない。 真下へ落ちていくような強烈な浮遊感。 全身の血液が一斉に足先へと下がり、内臓が本来の配置を見失って浮き上がる。
視界の端がチカチカと白く明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 左手で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が、顎の骨を伝う。
背中が座席に押し付けられる。 古いベルベットの生地が、三十七度前後の生温かい微熱と、ねっとりとした極めて粘度の高い水分を帯びている。 布地の奥に潜む無数の細かい絨毛が、パジャマの繊維越しに背中の皮膚へ直接吸い付いてくる。
吸着。
背骨の髄液が凍りつくような鋭い冷気が這い上がり、太腿の筋肉がビクンと跳ねる。 大きく顎の関節をずらし、ゴクリと過剰な唾液を飲み下す。
なぜ、私はこんな得体の知れない微熱を持った箱の中で、大人しく座り続けているのか。 論理的に脱出経路を探るべきではないのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥を刺す腐肉の発酵臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
臭気が邪魔だ。
まともな思考がドロドロに溶け落ちていく。 ボタンを弾く。カチッ。 浅く短い呼吸を反復する。
視界の端。 同じ車両の離れた座席に、三つの影が点在している。 ずぶ濡れの紺色のスーツを着た女。 彼女は、自分の膝の上に広げたハンカチの端を、親指と人差し指で何度も折り畳んでは開く。
折り畳んでは、開く。
濡れた布が擦れる微小な音が鳴り続ける。 ヨレたシャツにカーディガンを羽織った男。 白濁した銀縁眼鏡を指先で何度も押し上げながら、自分の親指の爪をガリガリと噛みちぎっている。 爪の間から滲んだ血が、唇をどす黒く汚す。
スカジャンを着た金髪の男。 足の貧乏ゆすりに合わせて、チッ、チッ、と湿った舌打ちの音を空間のゼリーに撒き散らしている。
私は、彼らの異常な行動を冷静に観察しているわけではない。 この状況を打開するための論理的な分析など微塵もしていない。
ただ、あの病室で暴かれた自分自身の不潔な記憶と直面することに耐えきれず、他人の無意味な反復動作に意識を仮託することで、自分の罪の輪郭を曖昧に塗り潰したかったのだ。 彼らの壊れた姿を見下すことで、自分だけはまだ正常な側にいるのだという、極めて卑小で醜い自己正当化の防衛本能だった。
それぞれが、それぞれの肉の反復運動を続ける。 揺れに合わせて、私の上下の歯がカチカチと打ち鳴らされる。 奥歯の銀の詰め物が微細な振動を拾い、歯根の毛細血管が弾けるような痺れが下顎骨から顔面全体へ広がっていく。
天井の青白い蛍光灯が、ジジッと羽虫の焼ける音を立てて不規則に光を落とす。
光が途切れるたび、空間の輪郭がグニャリと分厚い水槽の底のように歪む。 三半規管の中の体液がデタラメに波打ち、周囲の音が分厚い膜に遮られてくぐもっていく。 それはまるで、泥の底に沈んだ見知らぬ死体が吐き出す……いや、違う。
なんだろう。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などないのだ。
視界全体の彩度が急速に落ち、白茶けた濁りの中に空間が沈み込む。 右手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。
ジワリと滲んだ血の温度が、空気の不自然な生温かさと混ざり合う。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 大きく顎をずらし、何度も耳抜きをする。 腕を伸ばし、窓ガラスに額を押し当てようとした。
外の景色を確認するためか、それとも冷たいガラスでこの煮え滾るような脳髄の熱を冷ましたかったのか。 それすらも分からないまま、指先が、窓枠の黒いゴムパッキンに触れる。
接触。
硬いゴムの感触ではない。 水分を過剰に含んだ分厚い肉の襞が、指先の皮膚にドロリと吸い付いた。
瞬間、全身の毛穴という毛穴が急激に収縮し、ドロリとした冷たい体液が分泌される。 気管支がヒクッと引き攣り、鉄錆の味を伴った酸っぱい液体が食道を逆流する。 指先から伝わる三十七度の熱が、静脈を遡って心臓へと叩き込まれる。
振り返る。 後方の車両へ続くはずの扉。
そこには、赤黒く脈打つ分厚い肉の壁が隙間なく癒着し、微細な黄色い粘液を滴らせながら、ドクン、ドクンと重い鼓動を繰り返していた。
左手でパジャマのボタンを弾く。
カチッ。カチッ。
ただ、その反復音だけが、生温かい澱んだ車内に響き続けた。




