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――第 011 幕 顔のない検札――

 一定のリズムだった走行音が、不規則な波長へとずれていく。

 ドクン。……ドクン。

 床の奥深くから突き上げる重低音が、膝の関節から骨盤を抜け、胃の底の未消化物を直接揺さぶる。 天井に等間隔で並ぶ青白い蛍光灯が、「ジジッ」と羽虫が電撃で焼かれるような微細な破裂音を立てて明滅を繰り返す。 光が途切れるたび、網膜(もうまく)の裏側に黒い斑点がこびりつく。 古いベルベットの座席も、壁の木目調パネルも、彩度が急速に抜け落ちて白茶けた濁りの中に沈んでいく。

 エアコンの吹き出し口から、風が這い出してくる。 顔にへばりつくそれは、三十七度前後の生温かいゼリーのような重さを持っていた。 カビの臭いと、放置された生肉が発酵したような甘ったるい腐敗臭(ふはいしゅう)。 息を吸い込むたび、気管支(きかんし)粘膜(ねんまく)に粘り気のある臭気がべっとりと張り付く。

 肺が重く沈み込み、気管支がヒクヒクと細かく引き攣る。 指先が触れた窓際の手すりも、深く背中を預けている座席の布地も、三十七度の熱を持ち、ねっとりとした極めて粘度の高い水分を帯びている。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が、顎の骨を伝う。

 ズズッ。……ズズッ。

 通路の奥から、水分を過剰に含んだゴム底がリノリウムを擦るような、重く粘り気のある摩擦音が近づいてくる。 大きく顎の関節をずらし、ゴクリと過剰な唾液(だえき)を飲み下す。 右手のポケットの奥。 佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の札が、床から伝わる不規則な脈動(みゃくどう)と完全に同期し、ズクン、ズクンと熱を放ち始めている。

 掌の皮膚がチリチリと焼ける感覚。 タンパク質の焦げる香ばしい臭いが、腐肉の臭いに混ざる。

「……乗車券を、拝見します」

 濡れた雑巾をコンクリートの壁に力任せに擦り付けるような摩擦音と、乾燥した砂利をすり潰すようなジャリジャリとした粗い音の羅列。 それが頭蓋骨の骨伝導を経由して、直接脳髄の奥底にねじ込まれる。 奥歯の銀の詰め物がビリビリと痺れ、歯根の毛細血管が弾けるような痛みが下顎に走った。

 通路を挟んで斜め前に座っていたスーツ姿の男が、無言のまま切符を差し出す。 紺色の制服を着た影が、それを受け取った。 周囲の乗客たちは、誰一人として顔を上げない。 新聞の活字を見つめる者。真っ黒に塗りつぶされた窓の外を凝視する者。 衣服の繊維が擦れる音すら全く鳴らない。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 ザッ、と。制服の影が、「私」の横で止まった。

 頭上から、絶対零度の冷気が降り注ぐ。 制服から漂ってくるのは、アルコールが揮発するような鋭い刺激臭と、ホルマリンに漬け込まれた古い臓器の臭い。 その冷たい空気の塊が、鼻腔の粘膜(ねんまく)を容赦なく塞ぐ。 気管支がヒクッと引き攣る。

 私は、この得体の知れない存在に対して、論理的な状況分析を行うべきなのかもしれない。 あの顔のない造形がどのような力学で動いているのかを。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくホルマリンと腐肉の混合臭が、脳細胞のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 まともな思考がドロドロに溶け落ちていく。

 震える左手をズボンのポケットに沈め、湿ってブヨブヨになった切符を取り出して差し出した。 紺色の袖から伸びた手が、それを受け取る。 なぜ私は、大人しく「切符を見せる」というルールに従っているのか。 社会的な規範への服従などではない。

 ただ、要求された手続きを素直にこなす「無害な乗客」を演じることで、自分に向けられるであろう追及の視線を逸らしたかったのだ。 この生臭い空間で過去の罪を暴かれるくらいなら、言われた通りに切符を渡し、自分だけは見逃してもらいたいという、極めて卑小で利己的な逃避本能だった。

 その手には、白い布製の手袋が嵌められていた。 指先が切符に触れた瞬間、腕の筋肉がビリッと静電気を帯びる。

 手袋の布地の下に、骨の硬さや関節の節くれが存在しない。 ドロドロのゼリー、あるいは重い水風船が、規格化された布の中にみっちりと詰め込まれている感触。 指先の温度が急速に奪われ、全身の毛穴からドロリとした冷たい体液(リンパ)が分泌される。 ゆっくりと、視線を上げる。目深に被った紺色の制帽。その下。

 眼球も、鼻梁も、唇の裂け目も存在しない。

 ただ、つるりとした薄桃色の粘膜(ねんまく)が、顔の輪郭を隙間なく縫い合わせている。 凹凸のない、滑らかな肉の塊。 「私」を見下ろしているその質量の冷たさだけが、頭蓋骨を直接圧迫する。 肉の表面が、微かに「ぷるり」と波打った。

 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう。どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 視界の端がチカチカと白く明滅し、眼球の裏側で微小な火花が弾ける。 左手でボタンを弾く。

 カチッ。

 制服の影が、右手に持った金属製の検札パンチを、切符の端に押し当てる。 パチンという乾いた音ではない。 分厚い生の赤身肉を、犬歯で無理やり噛みちぎるような、ひどく粘着質な水音が車内に響いた。

 グチュッ。

 影は無言のまま、切り取られた切符を返す。

 ズズッ、ズズッ。

 再び、水分を含んだ重い足音を引きずりながら、隣の車両へと続く暗がりへ消えていく。

 パジャマのボタンを弾く手を止め、返された切符の端を指の腹でなぞる。 開けられた、小さな円形の穴。 その縁の紙の繊維は、高熱で黒く炭化(たんか)していた。 穴の周囲から、微かに酸っぱい臭いを放つ透明な分泌液(ねんえき)が滲み出している。

 指を離そうとすると、その粘液が数センチほど長く糸を引き、指紋の隙間にべっとりと絡みついた。 ズボンの生地で指先を強く拭う。

 ズリッ、ズリッ。

 布が皮膚を擦る微小な摩擦音。 指先から生臭い獣脂のような臭いが立ち上り、エタノールとホルマリンの冷気に混ざり合う。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 指を拭う。

 ズリッ。

 粘膜(ねんまく)の冷気と腐敗臭(ふはいしゅう)が重く沈む中、ただ自分の不潔さを布に擦り付ける反復動作だけが続いた。


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