――第 012 幕 噛み合わない問答――
車掌の、水分を含んだ重い足音が遠ざかる。
ズズッ、ズズッ。
再び、澱んだゼリー状の空気が車両を満たした。 古いベルベットの座席から、何十年も溜め込まれた埃の臭いが立ち上る。 天井のエアコンの吹き出し口からは、カビと微かな鉄錆の臭いが混ざった三十七度前後の生温かい微風が、絶え間なく吐き出され続けている。 息を吸い込むたび、気管支がチリチリと引きつり、肺の奥に細かい砂利が蓄積していく。
窓の外は完全な漆黒だ。 時折、血のように赤い光が、線状に流れては消える。 網膜の裏側に黒い斑点が焼き付き、視界の端がチカチカと明滅を繰り返す。 「私」は左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻いた。
ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の匂いが埃の臭いに混ざる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。
ズン、ズン。
通路のカーペットを踏みしめる、硬質な足音が近づいてくる。 ゴム底が、水分を含んで膨張した繊維を押し潰す鈍い摩擦音。 「私」の横で、その足音が止まった。
ゆっくりと首を巡らせる。 紺色のパンツスーツを着た女が立っていた。 顔色は、天井の不規則に明滅する青白い光を反射して紙のように白い。 眼窩に収まった眼球だけが、毛細血管が破裂しそうなほど赤く濁っている。
彼女が右手を伸ばし、「私」の左肩を強く掴んだ。
「見つけたわよ。逃げられるとでも思った?」
音声波形が、ゼリー状の空気を揺らして鼓膜を叩く。 彼女の掌からスーツの生地越しに伝わってくるのは、水分を含んだ分厚いゴム手袋で力任せに握られたような、三十七度の不自然な生温かさだ。 その熱が静脈を逆流し、胃の底をドロリと揺さぶる。 「私」は首をすくめ、肩の肉を引いた。 左手でパジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「やめてくれ。感染する」
大きくずらした顎の関節が軋む。 掠れた呼気が、口から漏れる。 女は左手で黒い手帳を顔の前に突きつけた。 金色の紋章が埋め込まれた警察手帳。
暗がりの中で明滅する光を受け、紋章の凹凸が歪に蠢く。 無数の足を持つ甲虫が、丸まってウネウネと波打っている。 それはまるで、泥の底に沈んだ見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう。 どうでもいい。
この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。
カチッ。
「なぜ病院を逃げた? あの事件の夜、貴方はどこにいたの」
彼女の口唇が動くたびに、声と一緒に「ボコッ、ボコボコ」という、深い水底から立ち昇る気泡の破裂音が混ざり込む。 音素の輪郭が水圧に押し潰され、粘度の高い空気の中でドロドロに溶け落ちていく。 「私」は大きく顎をずらし、何度も唾液を飲み下した。
ゴクリ、ゴクリ。
水圧に塞がれた耳抜きをしなければ、鼓膜が内側から破裂する。
彼女の問いに対して、論理的な弁明を構築すべきなのだろう。 だが、彼女のスーツの繊維から、放置された生肉が発酵したような甘ったるい腐敗臭が絶え間なく立ち上り、息を吸い込むたびに鼻の粘膜にべっとりとへばりつく。
この臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 まともな論理が組み上がらない。
「水が、来る」
掠れた声帯を震わせる。
「靴紐が、解けている」
女の眉間が、不規則な角度で引き攣った。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ。
「いい加減になさい。貴方には黙秘権がある。供述は法廷で不利な証拠として――」
彼女の口から定型句が滑り出す。 理解不能な音波の羅列が、頭蓋骨の裏側を直接削り取っていく。 「私」は両手で、自分の耳を強く塞いだ。
指の隙間から滲み出た体液が、耳介にべっとりと張り付き、ヌチャリと水音を立てる。
「聞かない。呪文は、聞かない」
私は、この異常な状況に抗議するために耳を塞いだわけではない。 ただ、あの不潔な夜の記憶を暴かれ、自らの罪の輪郭を直視させられることに耐えきれず、物理的に音を遮断してでも自分が楽な暗闇へ逃げ込みたいだけだった。 過去の責任から目を背け、自分だけは安全な側で息を潜めていたいという、極めて卑小で利己的な自己防衛の反射にすぎない。
女の呼吸が荒くなる。 鼻腔が微かに膨らむ。 女は手帳を懐に突っ込み、右手で安物のオイルライターを取り出した。
摩擦。
親指でヤスリを弾く。 火はつかない。
カチ、カチ、カチ、カチ。
乾燥してささくれた唇の皮を、犬歯で噛みちぎる。 執拗にライターの蓋を開閉し、ヤスリを回し続ける。 その乾いた摩擦音だけが、耳鳴りの鳴る鼓膜の中で響き渡る。
ドクン。
ライターが鳴るたびに、右手のポケットの底で、佐渡赤玉石の札が熱の脈動を打つ。 カチッ、ドクン。カチッ、ドクン。 心拍の波長がデタラメにズレていく。
胃壁が雑巾を絞るように収縮し、鉄錆の味を伴った酸っぱい液体が食道を逆流する。 大きく顎をずらし、それを無理やり飲み込む。
女は、火のつかないライターを鳴らし続ける。
カチリ。カチリ。
パジャマのボタンを弾く。
カチッ。カチリ。カチッ。
ただその乾いた反復音と、微かな肉の焦げる臭いだけが、三十七度の生温かい車内に充満していた。




