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――第 013 幕 診断のノイズ――

 走行音は完全に消え失せている。 代わりに床板の奥深くから響いてくるのは、巨大な臓器が強引に血液を送り出すような、重く粘り気のある収縮音(しゅうしゅくおん)だ。

 ドクン。……ドクン。

 一定のリズムが、サイズの合わない革靴から膝の関節、骨盤を抜け、胃の底に溜まった未消化物(みしょうかぶつ)を直接揺さぶっている。 車内の温度が、体温と同じ三十七度付近まで急上昇していた。 エアコンの吹き出し口からは、冷気ではなく、カビと放置された生肉の甘ったるい腐敗臭(ふはいしゅう)を含んだ生暖かい蒸気が絶え間なく吐き出され続けている。 息を吸い込むたびに、気管支(きかんし)粘膜(ねんまく)にその粘り気のある臭気がべっとりとへばりつく。 肺が水飴の中に沈んだように重くなり、気管支がヒクヒクと浅く引き攣った。 窓ガラスは内側からびっしりと結露(けつろ)し、水滴が古いタバコのヤニのような黄色い汚れを巻き込んで幾筋も流れ落ちている。

 通路を挟んだ斜め前の座席。 ヨレたシャツにカーディガンを羽織った痩せ型の男。 彼の上下の歯が不規則なリズムでカチカチと打ち鳴らされている。 彼は、銀縁眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭き続けていた。

 摩擦(キュッ)

 湿気を吸って重くなった布地が、ガラス面を擦る。 彼自身の指から滲み出た透明な体液(リンパ)がガラス面に広がり、白濁した皮膜を作る。 彼は眼鏡をかけ直し、またすぐに外して拭く。

 ズリ、ズリ。

 布をこする微小な摩擦音。 彼の眼球は毛細血管(もうさいけっかん)充血(ちゅうけつ)し、上下の瞼が激しくぶつかり合っている。

「……被験者A。局所的なガスの散布。低周波……」 男は、右手に握りしめた銀色のボイスレコーダーに向かって、早口で単語の羅列を吐き出していた。 音素の羅列。 喉の奥からの掠れた排気音(はいきおん)が、空間のゼリーに吸収されていく。 彼は左手で、鞄から薄型のタブレット端末を引き抜いた。 青白いバックライトが、彼の脂ぎった顔を照らす。 液晶画面に表示されたのは、文字でも記号でもなかった。

 蠕動(ウネリ)

 画面の裏側を、真っ赤な太い「血管」のようなひび割れが、脈を打ちながら這い回っている。 チカチカと明滅するその赤い線は、有機的な拍動と、ドロドロとした粘り気を持っていた。 滑らかなガラスのすぐ下に、生温かい血液が流れている。 それはまるで、かつて泥の底に沈めたはずの記憶が……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などないのだ。

「……ッ!」 男は甲高い裏声を上げ、タブレットの画面を自身の親指の爪で乱暴に叩いた。

 カチ、カチ。

 液晶が軋む(きしむ)音。 彼はタブレットを鞄の奥底へ放り投げる。 左手でカーディガンのほつれた糸を掴み、プチッ、プチッと引きちぎる。 細かい糸くずが指に絡みつく。 そして再び、レコーダーを口元へ近づけた。

「……現在位置、特定不能……」 喋りながら、彼は再生ボタンを押し込んだ。

 再生(ジジッ)

 スピーカーから流れてきたのは、人間の音声波形ではなかった。

 気泡(ゴボッ、ゴボボボ)

 深い水底から、ヘドロに塗れた空気が浮かび上がり、水面で破裂するような、ひどく湿った音。 その水音が車内に響く。

「……マイクの、故障。振動板が……」 男の口角が、見えないワイヤーで引き上げられたように、耳の付け根へ向かって引き攣り上がる。 彼はレコーダーの裏蓋を爪でこじ開けた。 中の乾電池を抜き取り、また同じ電池を力任せにねじ込む。 バネが軋む音。 蓋を閉める。 また開ける。

 空転(カチャッ、カチャッ)

 彼の指先は白く変色し、爪の間から微かに血が滲んでいる。 それでも彼は、電池の出し入れをやめない。

 カチャッ、カチャッ。

 彼に声をかけるべきなのだろうか。 その無意味な反復動作を止め、現状を論理的に分析するための対話を試みるのが、同じ空間に閉じ込められた人間の取るべき行動だ。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥を刺す腐敗臭と、舌の裏側にこびりつく鉄錆(てつさび)の味が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 まともな思考がドロドロに溶け落ちていく。 私は、右手のポケットの底で高熱を発し続ける佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の札を、さらに強く握りしめた。 焼け焦げる掌の皮膚から、タンパク質の焦げる臭いが立ち上る。 私が彼を静止しないのは、恐怖からではない。 ただ、彼が完全に狂って理性を失ってくれれば、他人の異常な姿を観察している自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだと錯覚できるからだ。 彼が壊れれば壊れるほど、自分が誰かから追及される恐怖から目を背けられる。 そんな極めて卑小で醜い自己保身の欲求が、彼に手を差し伸べるだけのエネルギーを根こそぎ奪い取っていく。

 大きくずらした顎で何度も嚥下(えんげ)を繰り返す。 レコーダーから鳴り続ける「ゴボボ」という水音が、私自身の鼓膜(こまく)の裏側に張り付いた泥水の感覚と完全に共鳴し、奥歯の銀の詰め物を「ジジジ」と痺れさせていた。 左手でパジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 車内の空気は、さらにゼリー状の粘度を増していく。 息を吐き出すたびに、古い鉄錆の臭いと腐肉の発酵臭(はっこうしゅう)が、ドロドロに肺の底に沈殿していく。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 電池のバネが軋む。

 カチャッ。

 三十七度の生温かい空間の中で、乾いた摩擦音の和音だけが響き続けていた。


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