――第 014 幕 腐敗臭の尋問――
ライターの音が響く。
摩擦。
ヤスリが金属を削る硬質な響きが、ゼリーのように澱んだ空気の層を切り裂いた。 紺色のパンツスーツが、天井の青白い明滅を遮って視界に立ち塞がる。
「……死体は、どこに埋めたの」
喉の奥の粘膜にべっとりと絡みつくような、極めて粘着質を持った音声波形。 彼女の顔色は、チカチカと不規則に落ちる蛍光灯の光を反射して紙のように白い。 眼窩に収まった眼球の毛細血管が充血し、ドス黒い赤に染まっている。
上下の瞼が一度も触れ合わず、眼球の表面が極度に乾燥していく。 私は左手で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 彼女の問いに対して、論理的な状況説明を組み立てるべきなのだろうか。 だが、息を吸い込むたびに鼻腔の奥にへばりつくエタノールの揮発臭が、脳細胞のシナプスの接続を強制的に切断していく。
臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考がドロドロに溶け落ちていく。
襟首が、乱暴に掴み上げられた。
圧迫。
粗悪なパジャマの生地が首に深く食い込み、気管が物理的に潰される。 ヒューッ、と肺の底から乾いた空気が漏れた。 彼女の指先から、三十七度を越えるじっとりとした生温かさが首筋の皮膚に直接伝わってくる。
その熱が静脈を逆流し、胃の底の未消化物をドロリと揺さぶる。 指先から微細な分泌液が滲み、首の毛穴を塞いでいく。 彼女の鼻腔が、微かに膨らんだ。
「あんた、自分がどれだけ臭うか分かってるの?」
生暖かい呼気が顔面に吹き付けられる。 パジャマから漂う斜面の泥の発酵臭と、病院の消毒用エタノールの揮発臭が、彼女の吐き出した呼気の湿度と混ざり合う。 彼女の顔の筋肉が、限界まで引き攣っている。
甘ったるい花の香りと、下水に放置されて発酵した生肉の臭いがドロドロに混ざったような、極めて具体的な腐敗臭。 それがどこから漂ってくるのか。 息を殺して、彼女の首元を見る。
ボタンを弾く。
カチッ。
雨水を吸って重くなった紺色のスーツの襟から。 彼女自身の皮膚の毛穴の奥から。 その死体の臭いが、濃密な蒸気となって絶え間なく立ち上っている。
彼女は自身の袖口を鼻に近づけた。 その瞬間、彼女の眼球の奥で微小な火花が弾けたように、顔面がビクンと引き攣る。 自らの肉体が放つ悪臭。
しかし、彼女の網膜の裏でチカチカと光が明滅し、視界のピントがデタラメに歪み、目の前にいる私の放つ悪臭として強制的に固定される。
ズリ、ズリ。
彼女の親指が、ライターのヤスリを回し続けている。
カチリ。
火はつかない。
「埋めてない。……海へ行くんだ」
奥歯の詰め物が共振し、ひどく掠れた摩擦音になった。 大きく顎をずらし、水圧で塞がれた耳抜きをする。 ゴクリ、と過剰な唾液を飲み下す。
海へ行く。それは希望の提示でも、隠蔽の自白でもない。 ただ、この密室で彼女の吐き出す腐敗臭から逃れるために、物理的に遠い場所の単語を口から出してみただけの、極めて卑小で利己的な逃避行動だった。 海という言葉を使えば、彼女の追及の矛先が少しでもズレて、自分がこの息苦しさから解放されるのではないかという浅ましい打算にすぎない。
「海……? 隠蔽工作の自白ね。いいわ」
彼女の右手が、腰のベルトへ伸びる。
拘束具。
取り出された重い鋼鉄のリング。手錠だ。 天井の青白い光を鈍く反射し、その金属だけがこの生温かい車内で絶対零度の冷気を放っている。 彼女の指先がその冷たい金属に触れた瞬間、腕の筋肉がビリッと静電気を帯びたように跳ねた。
手錠の冷気が皮膚を刺し、彼女の指の関節がこわばる。 ヤスリを回す。
カチリ。
ボタンを弾く。
カチッ。
私は、迫り来るその手錠を拒絶しようとはしなかった。 むしろ、あの冷たい金属の輪で両手を縛り上げられ、すべてを「法」という手続きに委ねてしまえば、自分自身で過去の罪に向き合う責任から逃れられるのではないか。 そんな醜い自己放棄の欲求が、抵抗するためのエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
背後。通路を挟んだ向かいの古いベルベットの座席で、硬直していた乗客の影が動いた。
剥離。
座席の繊維に癒着していた皮膚が、無理やり引き剥がされる音。 首から上が存在しない肉の塊が、関節の骨が軋む音を立てながら、ゆっくりと立ち上がる。 それはまるで、泥の底に沈んだ見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう。 どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
大きく顎の関節をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。
「腕を出しなさい」
警官の瞳孔が針のように収縮し、鼓膜の奥が分厚い膜で塞がれる。 背後に立つ重い質量の気配から逃れるように、彼女は私の襟首を握る手の力をさらに強めた。 気管支がヒクッと引き攣る。
カチリ。
ライターの音が鳴る。
ドクン。
右手のポケットの底。 佐渡赤玉石の札が、脈を打つように重く、皮膚を焼き焦がすほどの熱源へと変質した。
熱傷。
掌の脂が沸騰する音が、頭蓋骨の内側にだけ、確かな痛覚として響き渡る。 タンパク質の焦げる香ばしい臭いが、空間の腐敗臭とエタノール臭を強引に上書きしていく。 鋭利な痛覚のパルスが、脳髄の表面を直接削り取る。
背後で完全に立ち上がった肉塊が、ズルリ、と重い足取りで通路へ一歩を踏み出した。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ。
生肉の腐敗臭と肉の焦げる悪臭が充満する中で、ただ乾いた金属の摩擦音だけが空間を震わせていた。




