――第 015 幕 暴力の空回り――
首に食い込む紺色のスーツの化学繊維。 気管が物理的に塞がれ、肺の底から空気がヒューッと乾いた摩擦音を立てて漏れ出す。 女の顔色は、チカチカと不規則に落ちる天井の青白い光を反射して紙のように白い。 彼女の眼球は一点に固定され、上下の瞼が全く触れ合わず、表面が極度に乾燥していく。
彼女のスーツから立ち上る放置された生肉の発酵臭と、カビの臭いが、ゼリーのように重い空気の中でドロドロに混ざり合い、息を吸い込むたびに鼻の粘膜にべっとりと張り付く。
息ができない。
この不潔な臭気が気管を塞ぎ、彼女の拘束から逃れるための論理的な身体の動かし方が、ドロドロに溶け落ちていく。 「私」は左手で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「離しな、ポリ公」
スカジャンを着た金髪の男が、女の腕を振り払おうと、「私」の左腕を強引に掴んだ。 パジャマの薄い生地越しに、男の指先が食い込む。 三十七度前後の、極めて粘度の高い水分を含んだ生温かさ。 水分を含んで限界まで膨張した、冷たくて重い、腐った粘土の塊を握りつぶしたような感触が、男の指から伝播する。
男の網膜の裏側で微小な火花が弾けたように、彼の顔の筋肉がビクンと引き攣る。 男は熱した鉄に触れたかのように反射的に手を引っ込め、掌に張り付いた生温かい粘液を振り払うように、デニムの太腿で執拗に指を擦った。
ズリッ、ズリッ。
布が皮膚を擦る鈍い摩擦音。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ。
私は彼に助けを求めたわけではない。 彼が女の腕を振り払ったのは、正義感からなどではないだろう。 そして私も、拘束から解放されたことに安堵する余裕などない。
ただ、他人の醜い争いと混乱が目の前で起きているという事実が、自分自身の過去の汚れた記憶から目を背けさせる都合の良いノイズとして機能していることに、歪んだ居心地の良さを感じていた。 彼らが狂い、傷つけ合えば合うほど、私は自分の罪に向き合わずに済む。 そんな極めて卑小で利己的な逃避の欲求が、男の暴力を止めようとするエネルギーを根こそぎ奪い取っていく。
「なんだよこの車両は……」
男はバタフライナイフの柄を開閉させながら、周囲を見回す。
チャキッ、パチン。
鋼がぶつかる微小な振動が、生暖かい空気の層を揺らす。 古いベルベットの座席に、何人かの乗客が等間隔で座っている。 全員が深く首を垂れ、呼吸の気配すらなく、ピクリとも動かない。
「ジロジロ見てんじゃねえぞ、コラァ!」
男の首の血管が浮き上がり、怒号が放たれる。 しかし、その音声波形は高粘度の空気に絡め取られ、分厚い水槽の底で吐き出した気泡のように、鼓膜に届く前にドロドロに溶解して輪郭を失っていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた……いや、違う。
なんだろう、あれは。 どうでもいい。
このひしゃげた波長の奥にある不潔な連想に、意味などないのだ。 男は、最も近くに座っていた乗客の肩口へ向けて、ナイフを突き出した。
グチュリ。
ステンレスの刃先が沈み込んだ瞬間。 熟れすぎて液状化した果実の芯に、鈍い刃物を突き立てた時の、極めて湿度の高い破砕音が車内に響く。 同時に、甘ったるい腐敗臭が爆発的に膨張し、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。
この臭気が邪魔だ。
気管支がヒクッと引き攣り、まともな思考が組み上がらない。 男が息を呑む排気音を漏らし、ナイフを引き抜く。 鋼の刃の側面に、衣服の繊維の残骸はない。
代わりに、黄色く濁った体液のような脂が、べっとりと絡みついている。 それが刃の表面を滑り落ち、床のカーペットに「ポタッ」と落ちて、微かに酸っぱい匂いの煙を上げた。
ズリッ。
男が太腿で指を拭う。
ズリッ。
布が皮膚を擦る音。 大声も、鋭利な刃物も。 空間のゼリーの中に吸い込まれ、ただの物理的な汚れとなって落ちていく。
なぜ、ナイフはあんな風に沈み込んだのか。 あの乗客の肉体の構造を論理的に考察するべきだろう。 だが、鼻腔の奥にへばりつく酸っぱい匂いの煙が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
臭気が邪魔だ。
思考の結線が溶け落ちる。 右手のポケットの底。 佐渡赤玉石の札が、不規則な心拍の波長と完全に同期して、ズクン、ズクンと重い脈を打ち続けている。
掌の皮膚がチリチリと焼ける熱が、血管を逆流する。 タンパク質の焦げる香ばしい臭いが、空間の腐敗臭に強引に混ざり合う。 ボタンを弾く。
カチッ。
三十七度の生温かい空気の中で、ただ刃から滴る黄色い液体の音と、布を擦る乾いた摩擦音だけが響き続けていた。




